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『富城入道殿御返事』


(★1572㌻
 或は百騎或は千万騎、此くの如く皆我も我もと度ると雖も、或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も、彼の岸に付く者は一人も無し。然る間、緋綴赤綴等の冑、其の外弓箭・兵杖・白星の甲等の河中に流れ浮かぶ事は、猶長月神無月の紅葉の吉野・立田の河に浮かぶが如くなり。爰に叡山・東寺・七寺・園城等の高僧等之を聞くことを得て、真言の秘法大法の験とこそ悦び給ひける。内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室、五壇十五壇の法を弥盛んに行なはれければ法皇の御叡感極まり無く、玉の厳りを地に付け大法師等の御足を御手にて摩で給ひしかば、大臣公等は庭の上へ走り落ち五体を地に付けて高僧等を敬ひ奉る。又宇治勢田にむかへたる公卿・殿上人は甲を震ひ挙げて大音声を放って云はく、義時所従の毛人等慥かに承れ。昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや。狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く、修羅が日月を射るに其の箭還りて其の眼に中らざること無し。遠き例は且く之を置く。近くは我が朝に代始まって人王八十余代の間、大山の皇子・大石の小丸を始めとして廿余人に、王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし。皆頚を獄門に懸けられ、骸を山野に曝す。関東の武士等、或は源平或は高家等、先祖相伝の君を捨て奉り、伊豆の国の民たる義時が下知に随ふ故にかゝる災難は出で来たるなり。王法に背き奉り民の下知に随ふ者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し。今生の恥之を何如。急ぎ急ぎ甲を脱ぎ弓弦をはづして、参れ参れと招きける程に、何に有りけん、申酉の時にも成りしかば、関東の武士等河を馳せ度り、勝ちかゝりて責めし間、京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るゝの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ、又高僧・御師・御房達は或は住房を追はれ或は恥辱に値ひ給ひて、今に六十年の間いまだそのはぢをすゝがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達御祈承られて候げに候あひだ、いつもの事なれば、秋風に纔かの水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生け取りたりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候なり。又蒙古の大王の頚の参りて候かと問ひ給ふべし。
 

平成新編御書 ―1572㌻―

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