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『就註法華経口伝』


(★1797㌻)
  御義口伝に云はく、量の字を本門に配する事は、量とは懸摂の義なり。本門の心は無作の三身を談ず。此の無作の三身とは仏の上計りにしては之を云はず。森羅万象を自受用身の自体顕照と談ずる故に、迹門にして不変真如の理円を明かす処を、迹の当体を改めずして無作の三身と沙汰するが本門事円三千の心なり。是桜梅桃李の己が位己が体を改めずして無作の三身と開覚す。是即ち量の義なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は無作三身の本主なり云云。
    第三 義の字の事
  御義口伝に云はく、義とは観心なり。其の故は文は教相、義は観心なり。所説の文字として心地に沙汰するを義と云ふなり。就中無量義は一法より無量の義を出生すと談ず。能生は義、所生は無量なり。是は無量義経の能生所生なり。法華経と無量義経とを相対するの能所に非ざるなり。無相不相名為実相の理より万法を開出すと云ふ。源は実相なる故に観心と云ふなり。此くの如く無量義の三字を迹門・本門・観心に配当する事は、法華の妙法等の題と今の無量義の題と一体不二の序正なりとの相承の意を相伝せんが為なり云云。
    第四 処の一字の事
  御義口伝に云はく、処の一字は法華経なり。三蔵教と通教とは無の字に摂し、別教は量の字に摂し、円教をば義の字に摂するなり。此の爾前の四教を摂するなり。四教を所生と定め、さて序分の此の経を能生と定めたり。能生を且く処と云ひ、所生を無量義と定めたり。仍って権実相対して無量義処を沙汰するなり。
    第五 無量義処の事
  御義口伝に云はく、法華経八巻は処なり、無量義経は無量義なり。無量義は三諦・三観・三身・三乗・三業なり。法華経に於一仏乗分別説三と説いて、法華の為の序分となるなり。爰を以て隔別の三諦は無得道、
 

平成新編御書 ―1797㌻―

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