それが衆生救済の役に立つことなのか?>他宗

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誰かが録画しておいてくれたらしい、1月12日放映の
というのをざっと見た。いや、最初の方だけ見た。3時間もテレビを見ている暇はないから。
一体何という企画の番組なのか、日蓮宗の者も居るではないか、これでまた出家者に対する一般の評価が下がらなければいいがとまず思った。
そもそも、宗教というものは、教えの功徳によって人々を救うのが本分である。
だから、教えそのものに力がない邪宗は宗教は何でも良いのです、などと放言する。
 昨年折伏に行って△△宗の檀家だと言う人が新興宗教の○○会に入っているなどと聞いて驚いた。一体その△△宗の住職はお宅が○○会をやっているのを知っているのか、と聞くと「何でもおやりなさい」と勧めてくれたというのを聞いて呆れた。それで居ながら、日蓮正宗の話には耳を貸さないのだから余程業が深いのだろう。
 自分の所の信心だけをやってそれで御利益がなかったらその宗教が力のない宗教だと言うことがバレてしまうから、何でも良いのですなどと平気で言えるのだ。宗教者の自覚がない無責任この上ない発言だ。
また逆に教えに功徳がある宗教は(これは要するに日蓮正宗のことを言っているわけであるが)教えを実践しさえすれば誰でも御利益に与れるので、他宗に比べて僧侶は聖僧ぶることはないし、寺院も派手に大きく立派にしようとはしない。
勿論「他の教えも信じて良いですよ」などとは決して言わない。
 世間で「信心は荘厳より起こる」などというので、ある程度はキチンとするが、他宗のように血眼になって不必要に信者檀家から御供養を求めて金ぴかの伽藍や法衣で飾ることはしないのである。
撰時抄に、
 始めには勝劣を諍論しけれども、善無畏等は人がらは重し、天台宗の人々は軽かりけり。天台大師ほどの智ある者もなかりければ、但日々に真言宗になりてさてやみにけり。
(撰時抄855

という記述があるが、真言宗は聖僧ぶっていたのだろう、それに引き替え天台法華宗の坊さんは無作であるから取り繕うと言うことをしなかった。
それで、真言宗は力のない罰当たりな謗法なのに、庶民の甘心を買って繁盛し、真言の悪法を蔓延させた、という事が書かれてあるくらい、法華宗(日蓮正宗も法華経を依経とする宗教です)は「徳を高く見せよう」という方向へは向かない。
それは大聖人の「末法無戒」という態度に由来すると思う。大聖人は御自身を、
 日蓮は無戒の比丘なり(御衣並単衣御書908
と仰せられ、弟子達にも、
 言をば但いなかことばにてあるべし    (法門申さるべき様の事430
と都風の言葉にかぶれて、大聖人の教えをよく弁えようとしない姿を諫めている。
教えこそが大事なのだ。
66世日達上人は
     乗に緩なるを許さず、汝は只一介の勤息なれど
     地涌の眷属たるを想いて、努めよ励めよ
という銘戒を徒弟に残された。乗とは「教え」、緩とは「おろそかにする」といった意味である、私達は食事の度にこれを斉唱したものである。
この意味は涅槃経にある、
涅槃経に云はく「乗に緩の者に於ては乃ち名づけて緩と為す。戒に緩なる者に於ては名づけて緩と為さず。菩薩摩訶薩此の大乗に於て心懈慢せずんば是を奉戒と名づく。正法を護るが為に大乗の水を以て自ら澡浴す。是の故に菩薩破戒を現ずと雖も名づけて緩と為さず」(守護国家論124)※本来は涅槃経本文に当たるべきだが走り書きなので略す
による。これは要するに正しい教えこそが大事なのだ、正しい教えを守って行ずるものこそ「奉戒」つまり戒を持っていることになり、その行者に例え世間でイメージする多少の破戒的行為(肉食妻帯飲酒等)があったとしても破戒とは言わないんだ、という意味である。
また日常生活から大きく逸脱した厳しい修行をウリにしている僧侶もいたが、それをしなければ救われないのなら、一般の人々は全く救われないことになる。
世は末法であり、国は日本であり、広まるべき教えは大乗仏教なのである。
釈尊すら苦行を捨てて悟りを開いたのである。この一事をもってしても難行苦行に仏教の本質があるかと言えば無いことが明白である。
たくわんを音を立てずに食べるとか、長い廊下を雑巾がけしたとか、噴飯もの、全くナンセンスである。
日蓮正宗の標準的僧俗は、毎朝毎晩、勤行・唱題をする。当然のこととしてこれを行っている。こうした態度は常盆常彼岸と称されている。
普段全く信心気がないのに、盆や彼岸、自分の思い立ったある一時期だけ死にものぐるいでやる、という姿勢ではないのである。
日蓮宗だったか24歳の俄出家の女性は35日間修行した、などと言ってるが、それで自身が救われ、また他人を幸せに出来るというのだろうか。全く出来ないと断ずる。
そんな求道の気持ちと暇があるのなら、日蓮正宗寺院で御授戒を受け信徒として大聖人の仏法を修行する方がよっっっぽど正解である。
言っておくが、たった35日間の修行よりも、日蓮正宗信者の毎日の勤行唱題折伏登山参詣の方が大変だ。日蓮正宗の僧俗である限り死ぬまでこれを行うのだから。
 大聖人は、
 受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり(四条金吾殿御返事)775
と信心を持ち続けることが成仏なのであるとはっきり言われている。
にわか出家で形ばかりは尼の格好をしたとしてもまったくそこには威儀が具わらない。
彼女ばかりではない、邪宗謗法の僧侶はすべて同轍である。
人々を真に救い得るのは、御本仏・日蓮大聖人の御本尊に対する無二の信心である。
この有象無象の謗法邪教には到底及びもつかない即身成仏の境界に至れることは信心をした人にしか分からない。
例えば体験談にはこういうものがある↓。
上記等も参考にし、道を求めるものは日蓮正宗で授戒を受けるべきである。
最寄りの日蓮正宗寺院も結構だが、道を求める者は千里の道も厭わないだろう。
御本仏日蓮大聖人の御法魂まします総本山大石寺へ参り、当坊にて御授戒を受けたら如何だろうか。
                            日蓮正宗 本種坊

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