以信得入

調べ物をしていたら、御当代上人の御登座前・昭和55年の布教講演記事に接した。
真に懇切丁寧に「信」について論述されていて、大変有り難く思ったので、紹介しましょう。



     以信得入
   [日蓮正宗布教師\n東京都新宿大願寺住職] 早瀬義寛/P43-上
 皆様、こんばんは。ただいま御紹介を頂きました早瀬義寛でございます。
 本日は、総本山第六十七世日顕上人猊下の御代替わり法要に当たりまして、御信徒各位には多数の御登山、まことにおめでとうございます。皆様には、普段の御信心・御精進によってこの大法要に御登山できましたことは、この上ない喜びであろうと拝察し、共々にお喜びをする次第であります。
 昨年七月、御先師日達上人猊下の御遷化を迎えまして、宗門は皆深い悲しみの中にありましたが、このたび第六十/P43-下七世日顕上人猊下を迎えるに当たり、再び活気を取り戻し、宗門一同、日顕上人猊下のもとに一丸となり、異体同心に御奉公に励んでいくことを決意した次第であります。
 本日はその日顕上人の御代替わりの大法要に当たり、また一段と緊張致しまして御奉公をお誓い申し上げた次第でありますが、多難な八十年を迎えて、それぞれが御本尊様の御威光を讃え、御法主上人猊下の御教導・御指南を体して、広布の願業へ邁進していきたいと念願する次第であります。
 さて、本日私は〝以信得人〟と題しましてお話をさせて頂きますが、今しばらくの間御辛抱頂きまして、御聴聞くださるようお願い致します。/P44-上

   以信の信とは

 法華経の『譬喩品』を拝しますと、その中に
 「汝舎利弗すら、尚此の経に於いては、信を以って入る
 ことを得たり、況や余の声聞をや、其の余の声聞も、仏
 語を信ずるが故に、此の経に随順す、己が智分に非ず」
                  (開結二三九頁)

とあります。今〝以信得入〟という言葉も実はこのお経の中から出てきたところの言葉でありまして、今の経文を解りやすくいうならば、
 『舎利弗の如き智慧第一といわれる者でさえも、此の経
 つまり法華経においては信をもって入ることができた。
 ましてその他の声聞においては智慧によって成仏したの
 ではなく、ただ仏語を信じ、その信をもって成仏するこ
 とができたのである』と説かれておるのであります。
 元来、仏教におきましては、
 「信は道の源功徳の母と云へり」
           (念仏無間地獄抄・新編38頁・全集九七頁)

との大聖人の御金言がありますように、仏と我々凡夫とをつなぐものは信であると説き、信のない、あるいはまた信を説かない宗教・仏教はないのであります。ですから、もし仮りに宗教から、あるいは仏教から信を取ってしまえ/P44-下ば、つまり信ずるということを取ってしまえば、それは既に宗教でもなければ仏教でもなく、たんに理論であって、観念の世界に遊ぶ戯論にすぎないのであります。
 理論や観念では我々は絶対に成仏しないことは火を見るよりも明らかであります。故に先程のお経の中にも「己が智分に非ず」といって、己の智慧・才覚で成仏するのではないことを示されておるのであります。と申しますのも、特に末代の我々はもともと理即但妄の荒凡夫であり、我々衆生が自分の智慧をもって悟りを得ることは至難なことであります。また自分の智慧では、いくら修行をしても悟りへに絶対に到達しないのであります。
 理即但妄の凡夫というのは、理の上では仏性を具えてはいるものの、いまだに正法の名を聞かない迷いの凡夫のことで、この迷いの凡夫がいくら己の智慧をふりしぼってみても、しょせん迷いの世界から出ることはできないのであります。むしろ往々にしてますます迷いの方の深みにはまってしまうのがおちでありまして、そのような例は私どももよく見掛けるところであります。
 だが、この迷いの凡夫であっても、ひとたび妙法蓮華経の名を聞き、信ずることによって、即ち名字即の位を得て、これが
 「名字即の位より即身成仏す」
             (総勘文抄・新編1417頁・全集五六六頁)

/P45-上とありますように、名字即極の理によって成仏得道を果たすことができると説かれたのが大聖人の仏法であります。したがって理即但妄の荒凡夫が成仏に至るためには、妙法蓮華経を信ずるという行為がなされなければならないのでありまして、もし信がなければ我が身に内在する仏性を開発することもなく、まさに
 「手なくして宝山に入り足なくして千里の道を企つるが
 如」          (法蓮抄・新編814頁・全集一〇四五頁)

きものになってしまうのであります。
 ということは、もともと仏法においては、
 「仏法の根本は信を以て源とす」
         (日女御前御返事・新編1388頁・全集一二四四頁)

と示され、また
 「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」(同前掲書・同頁)

と説かれているように、仏を拝する凡夫衆生の立場からいうならば、仏へ帰依する道はただ一つ信のみしかなく、信こそすべてであるということであります。
 例えば、今申し上げた「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」ということは、これは、仏法は海の如く大きく広く、そして深い。文字どおり広大無辺の大慈悲をもち、一切衆生をことごとく受け入れる程の大きさをもつ。したがって一見どこからでもその仏法の海に入っていけるようであるが、実はその仏法という海へはただ一つ〝信心〟という入/P45-下口しかない、ということをこの御文の中で教えているのであります。
 ですから大聖人は『日女御前御返事』の中において、外典においてさえも信の一念によって河の水が凍り、あるいは〝一心岩をも通す〟というように信の一念によって石に矢が立つ例を述べられて、これは「至信の故なり」(新編1389頁・全集一二四五頁)
と仰せられています。この「至信」とは即ち信じきっていく姿勢という意であります。また『四信五品抄』の中におきましては
 「信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不言は一闡
 提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり」
                  (新編1112頁・全集三三九頁)
と仰せられています。つまり以信代慧ということをこの御文の中でお示しあそばされておりますが、この以信代慧ということも詮ずれば信をもって成仏得道の本願であることを示されたものでありまして、『御義口伝』には
 「三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無
 妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり」
                  (新編1738頁・全集七二五頁)
と仰せられており、また同じく『御義口伝』には
 「信の一字は一切智慧を受得する所の因種なり」
                  (新編1773頁・全集七六〇頁)
とも仰せられております。/P46-上
 これらの御文の意は、信こそ智慧の因であることを示されたもので、その智慧というのは南無妙法蓮華経のことであります。つまり智慧の最高は仏智であり、その仏智を得るのもこれまた信以外にないことをお示しあそばされているのであります。
 また同時に「信は慧の因・名字の位なり」「信は智慧の因にして名字即なり」と示されていることは、先程少し申し上げた「名字即の位より即身成仏す」との御金言に合わせて考えると、お分かりのとおり、まず妙法蓮華経の名を聞き信受するところから、即ち名字即の位からはじめて即身成仏の本懐が得られるのでありまして、〝名字妙覚〟といわれる意味と同じであります。つまり、我ら末代の衆生に名字即の位より直ちに妙覚の極果に至ることをいわれておるのでありまして、ここでは文上・脱益の仏法におけるような歴劫修行は説かないのであります。
 したがって、このことについては日寛上人が『当流行事鈔』の中で〝以信得入〟のことを釈せられて
 「以信豈名字に非ずや、得入は即ち是れ妙覚なり」
           (学林版『六巻鈔』・三〇五頁)
と御指南あそばされております。つまり〝以信得入〟の「以信」を名字即に、「得入」を妙覚に配当しての御指南でありまして、これによって我ら末代の荒凡夫が信によって妙覚の極果に至ることが明らかに示されているのであり/P46-下ます。
 また、もう一つ、信こそ元品の無明を切る利剣なりと明かされております。これは『御義口伝』に
 「一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の
 一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣な
 り」               (新編1737頁・全集七二五頁)
とある御文を指すのでありますが、「元品の無明」というのは衆生に本然的に具わっておる根本の無明、即ち根本の迷いのことで、「無明」というように、明らかでない、物事が明らかに見えない、根本の迷いのことであります。その根本の迷いを断ち切り、疑惑を断破して衆生は成仏できるのでありまして、疑惑を断破(断ち切り、破折すること)
する利剣は即ち信の一字である、と仰せられているのであります。つまり〝無疑曰信〟疑い無きを信と曰うということであります。
 この〝無疑曰信〟という語は天台大師の『文句』の中にある言葉でありますが、信ずるという意味は己心に疑念ののない状態を指すのでありまして、これは同時にまた色心の二法にわたっていなければならないのであります。つまり、心も身体(色)
も共に疑念なき状態をいうのであります。そしてその状態が最も大切なのであります。
 よく〝知るよりも一つの実践〟という言葉がありますが、実際私共の信心のなかで大切なことは、大聖人の教え/P47-上を身につけていく、身に体していくということであります。
 ここで一つの例としてお話を致します。これは実際問題として我々にあってはならないことでありますが……。
 ある人がいて、その人はいつも仏教の話を聞き説法を聞いていて、信仰上の話題に大変明るい人がいた。そして自分ではそれなりに、絶対的に精神的安定を得ていた。したがって『必ずや自分は安祥とした臨終を迎えることができるであろう』と常々思っておった。ところがいよいよその人が臨終を迎えるに至ってまさに死に直面してくると、それまでの確信がぐらついてしまって落ち着きがなくなってしまい、今まで堅持していた信念も動揺し始め、結局は苦悶のなかに臨終を迎えてしまった、という話があります。
 これなどは、理屈ばかりの話がいかに実りのないものであるか、百の教え、千の教えを知っていても現にそれを実行しなければまったく価値がなく、空論に終わってしまうということの例であります。
 やはり、私達にとつて本当の信心の姿というのは、色心の二法にわたって正しくあるべきでありまして、その心構えとして我々は心身ともに信心の道に励んで参りたいものであります。/P47-下

   正しい信心の在り方とは

 そこで、正しい信心の在り方というものが大切になって参ります。
 基本的には、まず正しい対境をしっかりと見極めることが第一に大切なことであります。対境を誤ればこれは堕獄の因、不幸におちざるを得ないのであります。故に
 「正境に縁すれば功徳猶多し、正境に非ずんばたとい偽
 妄なきも亦種とならず」との妙楽大師の言葉もあるように、正しい対境、即ち独一本門の大御本尊に縁することが、まずもって第一の正しい信心の在り方であります。
 私共は、この末法に生を受けたいわゆる本未有善の衆生でありますが、末代の衆生の多くは正しい対境の何であるかを知らず、正しい本尊に迷い、本尊に迷うが故に己の色心に迷う、己の色心に迷うが故に生死を離れることができず、ついに堕獄の苦しみを受けるようになるのであります。私共が成仏するためには必ず末法の正境たる大御本尊に縁し、そして帰依していかなければならないのであります。ところが、ここのところが世間の方々はなかなか分からずに皆迷っているのであります。
 その原因の一つには、末代の衆生にとっていかなる仏が有縁の仏であり、いかなる仏が無縁の仏であるかを知らな/P48-上いからでありますが、仏法では〝時〟により〝機〟により〝国土〟によってその衆生を利益すべき仏と法とが決まっているのでありまして、その決まった以外の仏と法とをいくら崇め、信じても、そこには利益は生じないのであります。『法華取要抄』を拝しますと、大聖人は、当時の日本国の人々がだれかれ構わず阿弥陀如来、阿弥陀如来と大騒ぎしているのを破折されて、末法の衆生にとって、あるいはまた日本の国土にとってまったく無縁の阿弥陀如来をいくら拝んでも、それは丁度牛の子に馬の乳を与えるようなものである、と仰せられております。つまり何の役にも立たないということであります。
 これと同様に、脱益の釈尊も大日如来も薬師如来も、これら権仏・迹仏はすべて末法の衆生にとって、あるいは日本の国土にとっては無縁の仏であり、末法の衆生とは結縁のきずなはないのであります。きずながなければ、そこには利益は生じてきません。まさに『顕仏未来記』において
 「末法に於ては大小の益共に之無し」(新編676頁・全集五〇六頁)
と仰せられているように、まったく宗教的に結びつかないのであります。
 よく世間では〝縁なき衆生は度し難し〟といいますが、我々末代の衆生にとってみれば阿弥陀如来・大日如来・薬師如来等の〝縁なき仏は信じ難し〟というところでありまして、末法の衆生はあくまでも末法有縁の仏を信じ、末法/P48-下有縁の法を信じてこそ広大無辺の本仏の慈悲に浴することができるのであります。
 大聖人が
 「一句・一偈なりとも行ぜば必ず得道なるべし有縁の法
 なるが故なり」(南条兵衛七郎殿御書・新編324頁・全集一四九六頁)
と仰せのように、末法有縁の大法たる南無妙法蓮華経の五字・七字を信受していくところに我々の真の得道のあることを知らなければならないのであります。
 日寛上人は『末法相応鈔』の中で末代の衆生がいかなるをもって本尊とすべきかを示され、
 「三徳有縁を本尊と為すべし」
           (学林版『六巻鈔』・二七四頁)
と仰せられております。末法の衆生は本未有善の衆生でありますので、この衆生のためには末法の荒凡夫の心田に仏種を植えるところの仏、主・師・親の三徳の縁の最も深い仏の御出現と、その説かれるところの妙法蓮華経によってはじめて成仏得道が称えられるということを知らなければならないのであります。
 故に、末法御出現の大聖人を御本仏と仰ぎ奉り、本尊と定めて末法の正境と拝していくことが、最も肝心なこととなるのであります。/P49-上

   信心の持ち方について

 次に、信心の持ち方については、過日、御法主日顕上人猊下の御指南の中に
 「末法の成仏、当宗の修行は信が大切であり、特に〝師
 弟相対の信〟が肝要であります」
         (大日蓮五十四年十一月号・七一頁)
と述べられ、また
 「この「信」ということは、自分の心を師匠に任せるこ
 とであり、仏法に任せることであります。故に、〝自分
 の心を〟という意味と〝自分の心に〟という意味との、
 二つのけじめが大切であります」
               (同前掲誌同号・同頁)
と御指南なされております。
 ともすれば自分の心を中心として〝自分の心に任せて〟しまうことはよくあることでありますが、実はこれが大変な誤りでありまして、御法主上人猊下は更にこの点を注意せられて、
 「『自分の心に任せ師匠の言や仏法を観る』ということ
 になると、これは自分の心というものが中心になり、従
 って師匠や仏法を信じない場合が生ずる。これがすなわ
 ち不信となるのであります。不信は謗法であり、堕地獄
 の根源であります。故に信心とは、〝自分の心に〟では/P49-下
 なく、〝自分の心を〟師匠・仏法に任せることでありま
 す。この『を』と『に』の相違が、末は百万・千万の違
 いとなるのであります」   (同前掲誌同号・同頁)
と御指南あそばされております。まことにきびしい御指南でありますが、これは我々が成仏の大道を歩む上で是非、心していかなければならない大切なことを明示された御指南であります。したがって、この御法主上人猊下の御指南を拝して、この点のけじめをはっきりとつけておかなければなりません。
 日蓮正宗の信心は、申すまでもなく本門戒壇の大御本尊に帰命依止し奉っていくところにすべての根本がありますが、同時に、法水・血脈を忘れて信心を論ずるわけには参りません。
 末法の御本仏・宗祖日蓮大聖人より二祖日興上人へ譲り与えられたところの血脈は三祖日目上人へ譲り与えられ、更に日道上人・日行上人へと代々一器の水を一器に移すが如く法水写瓶せられて、今日第六十七世目顕上人猊下へ承け継がれております。故に今我々は、この御法水を承け継がれるところの御法主上人猊下を大師匠と仰ぎ奉り、その御指南のもとに信行に励んでいくべきが肝要であります。
 もちろんそれらのことは十分解りきっているところでありますが、ともすると自分の心を中心にものを考えがちなのが今の世の中であります。私達までがその世間の風潮に/P50-上同じて、それと同じになっては信心をしている意味も、信心をしている価値もなくなってしまうのであります。
 よく世間では〝原点に帰れ〟ということを言いますが、私達も同じでありまして、私どもは御戒壇様と血脈という原点を常に見失うことなく、信行に励んでいくようにしなければなりません。このことを、今日を一つの契機として、確認をしていきたいのであります。
 そして、あくまでも自分の心に任せて信心していくのではなく、自分の心を御本尊に任せ、御法主上人猊下の御指南を体して、間違いのない信心に励んでいくように心掛けていくべきであります。

   受持正行

 次に、修行の方軌としての信心の在り方をみるときはどうであるかと申しますと、私はまず〝受持正行〟ということを第一に挙げなければならないと思います。
 即ち、末法の衆生の修行としては専ら受持の一行に限るのでありまして、天台過時の行相たる五種行はその全部を採らないというのが本宗の在り方であります。全部を修行しないというよりも、元来、我々の行なうところの受持の一行の中に他の読・誦・解説・書写の四つを含むのでありまして、大聖人は『日女御前御返事』の中で、
 「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の/P50-下
 修行を具足するなり」      (新編1389頁・全集一二四五頁)
と仰せになっております。また『御義口伝』には
 「五種の修行の中には四種を略して伯受持の一行にして
 成仏す可しと経文に親り之れ有り」 (新編1795頁・全集七八三頁)
と仰せられております。故に受持の一行の中に、読(経文を見ながら経を読むこと)
・誦(経文を見ずに暗誦すること)
・解説(化他のために法を説くこと)
・書写(経文を書き写すこと)
の四種の行の功徳をことごとく収めていると示されいるのであります。
 では、その受持とは一体いかなる意味かと申しますと、受持の「受」は受領の義であり、受け収めるという意味であります。また受持の「持」は憶持という意味であり、身心ともに銘記してよく持ち続けることをいいます。
 「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つ
 にあり」   (四条金吾殿御返事・新編775頁・全集一一三六頁)
と御金言にありますが、違背・退転せずに信心を持ち続けていくことは、実はなかなか大変なことであります。ところが、この持つということが末法の行としては一番大切なことであります。
 また竜樹の『大智度論』の中には
 「信力の故に受け、念力の故に持つ」とあります。つまり受持とは信念力のことでありまして、この信念力をもってよく正法を持つことが大事であります/P51-上が、この信念とは何かといえば〝確信〟であります。即ち大御本尊への絶対の確信であります。
 大聖人は『観心本尊抄』に
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我
 等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与
 え給う」             (新編653頁・全集二四六頁)
と仰せられておりますが、末法今時においては正信にこの御本尊を受持していくところに他の因行果徳の二法を譲り与えられて仏と等しい功徳を得るに至ると教えられておるのでありますから、私達はまずここに絶対の確信をもって御本尊を受持していかなければならないのであります。したがって、受持するところの対境が正しく本門の本尊であればこそ、受持の一行の中に他の読・誦・解説・書写の四種の功徳も具わるのでありまして、たんに受持という行の中にすべてが具わるという意味ではないのであります。よって、もしもこれが他の対境であったとすれば、その受持の一行の中にこれらの功徳が収まるということはないのであります。
 また、この御文は〝受持即観心〟の依文としても有名でありますが、観心とはどういうことかということについて
 「我が己心を観じて十法界を見る」
            (観心本尊抄・新編646頁・全集二四〇頁)
と仰せになっております。これを日寛上人は/P51-下
 「我が己心を観ずとは即ち本尊を信ずる義也」
        (観心本尊抄文段・富要四―二三六頁)
と明かされ、更に
 「十法界を見るとは、即ち妙法を唱る義也」
                   (同書・同頁)
と仰せになっております。即ち大御本尊の功徳を信じ、信心・口唱していくことが末法の観心でありまして、これは像法の天台のように自分の力で己心の十法界を観ようとするのではなく、あくまでも大御本尊の妙用がよって即身成仏を遂げていくというのが末法における観心の相であります。
 故に『本因妙抄』には
 「理即・短妄の凡夫の為の観心に余行に渡らざる南無妙
 法蓮華経是なり」         (新編1680頁・全集八七四頁)
と仰せられて、末代の衆生にとって観心とは何であるかを、極めて明確に示されているのであります。即ち受持即観心とは、末代の我ら衆生が、本門の大御本尊を絶対と信じ受持していく、その受持していくことが唯一の成仏得道の道であると信じていくことであります。
 そして、その受持の一行の中に他の四種の功能を収めるが故に、今はただ受持の一行をもって正行としていくことが大切であると、示されているのであります。/P52-上

  折伏正規

 次に、修行の方軌としての信心の在り方から第二に考えなければならないことは、〝折伏正規〟ということであります。
 仏教において、弘教の方法に摂受と折伏の二つがあることは既に御承知のとおりでありますが、今時末法においては折伏行をもって正規とすることもまた諸御書において明らかなところであります。『開目抄』には
 「無智・悪人の国土に充満の時に摂受を前とす安楽行品
 のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不
 軽品のごとし」         (新編575頁・全集・二三五頁)
と示され、
 「日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」
                      (同頁)
と仰せられています。申すまでもなく現在の日本は謗法の徒が充満し、ただ今の御文で示された「邪智・謗法の者の多き時」でありまして、まさしく折伏を先とすることは当然のことであるといえます。
 今、日寛上人の『開目抄文段』を拝しますと、この折伏ということについて教・機・時・国・教法流布の前後に分けてお示しくだされておりまして、要約して申上げますと
 『第一に教法に約せば、法華は爾前の権理を破折して法/P52-下
 華の実理を顕わしたのであるから、もともとが折伏の教
 えである。故に『文句』には「法華は折伏にして権門の
 理を破す」とあるように、教えそのものが折伏の教えで
 あるということ。
  第二に機に約してこれを論ずれば、本已有善の衆生の
 ためには摂受門を先とするが、本未有善の衆生のために
 は折伏門を前とすること。
  第三に時節に約せば、末法は大小・権実の教えともに
 教のみ有って成仏得道は無く、この時には折伏を前とす
 ること。
  第四に国土に約せば、日本の当世の国土は破法の国な
 るが故に折伏を前とすること。
  第五に教法流布の前後に約せば、前代流布の爾前迹門
 を破して末法適時の大白法・本門寿量の肝心たる妙法蓮
 華経を弘めるべき時であるが故に、教法流布の前後次第
 からいえば折伏を前とすべきである』
             (富要四―三二八頁・取意)
とお示しになっておるのであります。
 この御指南のとおり、まさに折伏こそが末法の時に適った弘教の在り方であることが分かるのでありますが、実際に折伏を行ずるに当たっての心構え、心すべきことは、まず折伏を行ずる各人が『折伏行こそ仏意・仏勅にかなった慈悲の行動である』と確信することであります。『如説修/P53-上行抄』には
 「我等が本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ天台
 大師は三十余年・伝教大師は二十余年・今日蓮は二十余
 年の間権理を破す」        (新編673頁・全集五〇四頁)
と仰せになられ、釈尊も天台大師も伝教大師も、そしてまた御本仏・大聖人も、ともに爾前の権教を折伏してきた、と説かれております。いつの時代であっても、仏法の正義を弘めるときの実践行は折伏であることをしっかりと知り、『仏説のままに行動しているんだ』と確信することが最も大切なことであります。
 そして折伏をしていくならば、おのずと謗法の恐ろしさ、怖さを知って参ります。またその謗法をおのずと破折していきます。ですから折伏をする中で己れが折伏をせられ、折伏をしていく中に他をも折伏していく。まさに仏の慈悲行がその一つの行動の中に具現していくのであります。その一つの行動の中で立派に仏道修行がかなえられ、仏の慈悲行を我が身において実践できるのは折伏行以外にはない、ということを知るべきであります。それぞれが、今一つ確信を持ち、勇気を持って、ますます折伏に励んでいくことが大切であろうかと思います。
 『祈祷抄』に
 「白烏の恩をば黒烏に報ずべし」 (新編630頁・全集一三五二頁)
との御金言がありますが、今私どもがこの偉大なる大御本/P53-下尊にお目通りでき得ましたのも、ひとえに自分を折伏してくれた人のおかげであります。であるならば、私達はその人に対して心からの感謝と報恩をしていかなければなりません。
 ところが仏法の上から申しますならば、その人に向ける感謝と報恩を更に一歩進めて、自分が折伏された喜びを今度は自分が折伏する立場で、いまだにこの大法を知らない人のために説いていくこと、折伏することが、実は自分を折伏してくれた人への真の感謝となり、真の報恩となるということであります。つまり最高の報恩とは折伏であり、この折伏こそが広布の原動力であり、この折伏の中にこそ大御本尊の功徳の真の発揚があること、当宗において〝折伏正規〟と判ずる所以が、ここに在ることをよくよく知るべきであります。
 故に今私どもは広宣流布への使命感と自己の成仏とを願い、ひたすら折伏に励み、この折伏行こそ末法の弘教の正規であることを確信し、もって〝以信得入〟の聖語を深く体していかなければならないと存じます。

  一切能生の根源の法とは

 繰り返すようになりますが、〝無疑曰信〟といい〝以信代慧〟といい、あるいは〝受持正行〟といい〝折伏正規〟といい、これらはすべて末法下種の正体、妙法蓮華経の五/P54-上字に収まることを知らなければなりません。なぜならば、この妙法蓮華経の五字は諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏・諸経の帰趣するところなるが故であります。
 故に十方三世の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳のすべてはこの妙法蓮華経の五字に帰して、一つとして欠けるところはないのであります。よって『法華初心成仏抄』には
 「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いし
 なり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙
 法と云うは是なり」        (新編1321頁・全集五五七頁)
と仰せられて、この妙法蓮華経の五字こそ三世の諸仏を成仏せしめた根本の法であり、一切衆生の成仏のための唯一の法であることを明かされているのであります。
 考えてみますと、今私達が唱え奉るところの南無妙法蓮華経の五字・七字がこれ程までの深遠なる意義と広大なる慈悲とを含んでいることを知るとき、弘達は心からこの御本尊に巡り合えた喜びをかみ締めるものであります。
 この御本尊の功徳力によって我ら末代の衆生が、たとえその身は本未有善の荒凡夫であろうとも、その身に内在する仏性を呼び起こされて、はじめて我が心本来の仏なりと知るのでありますから、まさに大歓喜の中の大歓喜、これ程の歓喜はないのであります。
 しかし、これもすべては私どもに信心がなければこのす/P54-下ばらしい歓喜も生じてきませんし、生命の輝きもみられません。文字どおり〝以信得入〟の信心に励んでいかなければならないのであります。
 そこで、最後に申し上げておきたいことに、私どもの信心は、先程〝色心二法にわたる〟と申し上げましたが、更に身・口・意の三業にわたって励んでいかなければならないということであります。末法下種の大御本尊を最第一と立て、口に読み、そのすばらしさを讃歎するだけではなく。心中にも真実そう思い、実践にもそれが現れるとき、はじめて身・口・意の三業にわたって信心しているといわれるのであります。
 仏法の目的は、その説くことを事実化し、血肉化していくところにあります。したがってそれが実践となって結ばれてこなければなりませんし、またそれが単なる口舌だけの理論であってはならないのであります。
 大聖人は『法蓮抄』の中で、『今、末代の法華経の行者が身・口・意の三業相応して信心に励むときは、その功徳百千倍すぐれ』『逆に御本尊に三業相応して背くときは罪を無間に開く』との意を仰せられております。心と身体と言葉が、ともに御本尊への帰依に結びつくとき、真の成仏があることをこの御金言によって深く深く知り、ますますの信心に励み、広布の願業に励んでいきたいと思います。
 申すまでもなく、私どもが日蓮正宗の僧侶であり信徒で/P55-上あるならば、そのすべてが血派付法の大導師・御法主上人猊下の御指南を体していくことが肝心であります。上に英邁なる御法主目顕上人猊下を戴き、そのもとに僧侶も信徒も、ともに一結していくことが今は一番大切なことであります。
 御法主上人猊下は本日の御代替わり奉告法要の砌に、一つには祖道の恢復について、二つには広宣流布への前進について、三つには異体同心の確立についてそれぞれ御教導せられ、もって宗内が一結していくことを強調せられました。私達は、この本日の御指南をはじめ、猊下のお示しくださる御指南をしっかりと体して御法主上人猊下を厳護し、もって御奉公の誠を尽くしていくよう努めなければなりません。そして、私達はそのことを声を大にして他に伝えていかなければならないのであります。
 まさに激動の八十年を迎えて、いろいろなことが起きてくることは既に予想されております。しかし、考えてみますと所詮今は末法であります。もとより
 「よからんは不思議わるからんは一定」
           (聖人御難事・新編1398頁・全集一一九〇頁)
でありまして、多少の苦難の起こることは当然のことであります。末法なのでありますから、それらの諸難は当然起こるのであります。むしろ今は、いかなる苦難が来ようとも、それらの諸難に驚かない、たじろがない不動の信念、/P55-下御本尊への絶対の確信が必要であります。
 どうぞ皆様方には、この不動の信念をもって、ますます御信心に励まれんことをお祈り申し上げる次第であります。
 最後に、本日御参詣の皆様方とともに、御法主上人猊下のいよいよの御健勝をお祈り申し上げまして、まことにつたない話ではありましたが、これをもちまして私の話を終えさせていただきます。
 御静聴、まことに有り難うございました。


http://honshubou.main.jp/gazo_/dnr/S55/05/S55050043.jpg
大日蓮 昭和55年5月号 43頁~
/A早瀬義寛
/T布教講演 昭和55年虫払会 以信得入
/Y昭和55年04月06日
/C於 総本山・御影堂
/B
/P43講演

コメント

タイトルとURLをコピーしました