立宗会の挨拶

りつしゆうあいさつれい4ねん4月28にち(木) ほんじつは769ねんまえけんちようねん(1253ねん)4月28にちほんぶつしゆうにちれんだいしようにんさまひろけんかって「みようほうれんきよう」のおだいもくとないだされたねんすべき「りつしゆう」(しゆうこんりゆう)のにちであります。 これはわばほとけさましよてんぽうりんえましょう。 おしやさまあいは30さいさとりをひらいて、まず21にちかんぞうかいというこのではないようなてんかいこうさつたちあいほうきますが、じつさいはそのちちじようぼんのう使つかわされたどうこうの5にんしゆぎようなかたいしていたごんぎようじつさいてきしよてんぽうりんえるでしょう。 しかし、いずれにせよこれらはほう便べんふくんだ、おしやさまほんしんではないずいおしえであってしんじつそのものではありません。  いつぽうにちれんだいしようにんりつきようかいしゆうときから、ぶつぽうせいずいである「みようほうれんきよう」をとなえられ、じゆんぶつじっていないぶつぽうそのものをさいしよからひろめられたのです。  ですからだいしようにんさますこしのじゆんぶつこんにゆうゆるさないことじゆうようされたのです。  こんかいほつかいどうほうかんこうせんしずんでおおくのじんめいうしなわれましたが、だいしようにんさまは『ぶつ房尼あまへん』につぎのようにおおせです。   「たびだいがんて、ねがはせたまへ。すこしもほうぼうしんのとが候はゞ、げんだいじよううたがひなかるべし。たとへばかいじようふねにのるに、ふねをろそかにあらざれども、あかりぬれば、かならせんちゆうひとびといちするなり。なはてけんなれども、ありあなあればかならついたたへたるみずのたまらざるがごとし。ほうぼうしんのあかをとり、しんじんのなはてをかたむべきなり」 (阿仏房尼あまぜんへん・九〇六) (いまこそしんじん退たいてんらいいところへまれわれるようにとけつすべきです。すこしでもみようほうれんきようしんじんしん、「ほんとうやくがあるのかなぁ」などとうたがってはいけません。そんなことではごくきですよ。たとえばふねうみすのに、たとえふねかけじようりつであったとしても、しんすいしてきたならばすぐにしずんでってるひとんでしまいます。んぼのかたつくったとしても、ちいさなありほどのあなほうしてたらけつきよくそこからけつかいんぼはだいしになってしまいます。ほうぼうというしんすいふせぎ、しんじんかたつくってきなさい、というです)  とうだいにちによしようにんおつしやいました。すこしのほうぼう、なんてないのです。ほうぼうほうぼうなのだ、と。  このほうぼうほうっておくと、ふなぞこあないたふねのように、おおくのじよういんみちれにげんごくしずんでしまうのです。   ですから、ほんじつりつしゆうたり、じやけんしようほうぼうげんかいだいしようにんおしえをあらためてめいし、こうしんじんかつどうはげんでまいりましょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました