南無妙法蓮華経 日蓮

今日は無事、御登山なされまして、これから御開扉に臨まれますこと誠におめでとうございます。
御住職様から何かお話をせよとのことで、僭越ながら少々お話申し上げます。
折角ですから大御本尊様の有り難いお話をしようと思います。
いつも読んでるお経、寿量品に、
「或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事」
とありますね。これは
「或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」
ということです。三千年前にインドに生まれたお釈迦様はこの寿量品でものすごいことを仰せられたのです。それは、自分は五百塵点劫という途方もない大昔から既に仏様として人々を導いてきた、というのです。その間にお釈迦様自身として現れたこともあれば、他の仏菩薩に身をヤツして出現し、法を説いたこともある、というのです。つまりこれはありとあらゆる仏菩薩・諸天はお釈迦様が姿を変えて現れて法を説いたのだ、ということなのです。
ということは真言宗の大日如来も、華厳宗の毘盧遮那仏も、浄土宗の阿弥陀仏も、比叡山の薬師如来も、その他ありとあらゆる、すべての仏菩薩はお釈迦様が身を窶した、変身してこの世に現れたのであって、その説法である大日三部経も、浄土三部経も、華厳経も凡そ釈尊五〇年の説法に登場する仏菩薩のお経全てがお釈迦様の御説法であることになるのです。
しかしそれもこれも、法華経に導き入れる手立てとして、方便として説かれたものであります。
しかるところ法華経に「不受余経一偈」と、また法華経の露払いたる無量義経に「四十余年未顕真実」等とこれまでの方便の教え法華経以前に説いた42年間の教えは全て捨てなさいと仰っているのですから、これはもう仏教徒を名乗るなら、法華経を信じなければいけないのは明白な道理なのです。そうなんです。
では、それと大聖人様の教えはどう関係してくるのかと申しますと、関係してくるどころの話ではなく、結論を先に言えば、日蓮大聖人の説かれる南無妙法蓮華経こそが、仏法の本体である、という事になるのです。
先ほどお釈迦様は七〇年前に生まれて有り難い説法をして下さる偉い人、だったのが、法華経に来て実は五百塵点劫の昔から人々を教化しているもの凄い仏様だったのだ、という発表、カミングアウトがあったのだという事を申し上げましたが、じゃぁその五百塵点劫の大昔にどうやって仏様になったのかというと、これまた寿量品に「我本行菩薩」とありますね。
これは「我本菩薩の道を行じ」云々ということで仏様になられる以前に菩薩としての修行があったことが判明するのです。
文上と言って、お経に示された内容を表層的に見ていきますと、これは何か――凡愚の我々には分からないけど、五百塵点劫の昔にお釈迦様が何かの修行して成仏して我々を導いてくれて居るんだな、神々しい仏様に救って頂こう、あら有り難や、と受け取るのが、まぁ身延日蓮宗を初め、お釈迦様ファースト、お釈迦様を本仏とする宗教全般がこれであります。
 彼らからすると、仏様といったらやっぱりお釈迦様に決まってるよね、という立場ですから、日蓮大聖人が仏様であると聞くと、その門下末弟でありながら眉を顰めるのです。しかしこれは大聖人が種種御振舞御書で
「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(1066)
と誡められるように、親の心子知らず(ならぬ師匠の心を知らぬ師敵対)の考えなのです。

「我本行菩薩」とは、これを本因妙と言いまして、「修行した」ということは同時にそこに修行の的となる法体、即ち本尊が存在する事が暗示されているのです。
そこを大聖人は百六箇抄に
「我が内証の寿量品とは脱益の寿量品の文底の 本因妙 の事なり。其の教主は某なり」
(一六九五)
と仰せられています。五百塵点劫の昔に釈尊が成道したその根本の教えの教主は日蓮大聖人なのだ、ということです。
これは実に釈尊の言った「五百塵点劫の昔から人々を教化してきた」宣言を超越する爆弾発言なのです。大聖人の仏法においては、久遠実成の釈尊ですら、南無妙法蓮華経によって仏と成る事が出来た本果脱益の仏様であり、仏法の根源たり得ないのです。

いや、そんなこと言ったって、大聖人がそう言ったから大聖人が尊いのか、自画自賛ではないか、という穿った見方をする人もいるでしょう。
 しかしそれもちゃんと理由があります。
法華経法師品には、
「須臾も悪言を加えんは 其の罪復彼に過ぎん」
「持経者を歎美せんは 其の福復彼に過ぎん」
(法師品三二四)
とありましてここでいう彼とは釈尊のことです。
お釈迦様が亡くなって末法の荒れた時代に法華経を弘通なさる方はお釈迦様よりも尊く重大な人であるから、そのお方をちょっとでも謗ったらお釈迦様を多年にわたって罵倒し続けるよりも重い罰を被るぞ、そのお方を何の気なしに褒めただけでも、お釈迦様を多年にわたって讃歎し続けた功徳よりも大きな功徳となるぞ、と当の釈尊自身が言っているのです。そのお方とは神力品に
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」云々(神力品五一六)
とありまして、末法において私たち荒凡夫の大光明となる存在なのです。
そしてまた勧持品に二十行の偈というのがありますが、そこには末法で法華経を説くと、悪口誹謗は勿論のこと、棒で叩かれ刀で切られ、石をぶつけられ、一度ならず追い出され、謗法の有識者に悪人扱いを受けるなどの酷い目に遭う事も明かされています。

さて、では実際の歴史に照らし合わせてみると、末法元年は一〇五二年、それ以降に法華経を命がけで弘通した人は誰でしょう。
勧持品のように酷い目に遭いながらも引き下がらず、住まいを襲撃され、竜の口で斬首され、伊東・佐渡へと二度も島流しに遭った日蓮大聖人以外にはおられません。
その大聖人が法華色読の上から、この法華経の未来の予言の当事者こそ自分であるということを宣言されるのです。
大聖人の弘められる南無妙法蓮華経は三世十方の諸仏が母と仰ぐ仏様の種なのです。
三世十方、ですよ過去・現在・未来、未来に仏様になる方もこの南無妙法蓮華経を根本とするのです。

 この例えが当を得てるかどうか分かりませんが、IPS細胞というのがありますね。
 あれは未分化の細胞を人工的に作って、支障のある患部の組織を復活させようという仕組みだと思います。
 この未分化というのがミソなのです。人間も最初はたった一つの卵細胞から出発して細胞分裂をしながら心臓や脳みそに発達していく訳です。
 しかしもとは一緒だったのだからと脳みそに進化した細胞を悪くなった心臓に貼り付けても意味を成しません。未分化の細胞だから意味があるのです。
 仏法もそのように、一番根本に南無妙法蓮華経の教え、教えと言うよりもこれは人法一箇ですから、法を離れて仏はありませんし、仏なくして法は存在しません、言わば御本仏様の御悟り――、四信五品抄に
「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ」(四信五品抄・一一一四)
とありますから、法華経の心、仏様の悟りそのものを名付けて「南無妙法蓮華経」と申し上げるわけですが、これこそが未分化の仏様の種なのです。
一方、五百塵点劫久遠実成の釈尊形にカスタマイズされた仏法は、本法を含んではいますが、やはり方便を含んだ帯権の法であって、日蓮大聖人の弘められる純粋な下種仏法には叶わないのです。
文底とはお経(法華経)の表層面を見るのではなくそのお経の指し示さんとする元意、言わば行間の意味で御本仏様の御悟りであります。これが純粋な仏種であります。
 先ほど脳みその細胞を心臓に充てても意味が無い事を申し上げましたが、末法の、本未有善といって仏法の種を持っていない人達は、釈尊ナイズされた仏法を持って来ても利益がないのです。釈尊の化導はもはや種ではないからです。種の植わっていない鉢に水や肥料を与え続けるようなもので、謗法の雑草は生えても本来の作物たる正法の芽は吹かないのです。ひらがなを覚えていない一年生に高校の漢文の授業内容を教えようというようなものです。
 南無妙法蓮華経は仏の種ですから、南無妙法蓮華経で仏様となることが出来るのは私たちも一緒です。
大聖人は、
「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備ふるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」(新池御書・一四六〇)
と「釈尊程の仏」と仰せられています。
 御義口伝に、
「桜梅桃李の己が位己が体を改めずして無作の三身と開覚す。(中略:是即ち量の義なり。)今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は無作三身の本主なり」(御義口伝・一七九七)
と桜梅桃李と木の種類は違っても、同じく花を咲かせて美しく咲き誇る様はどれも見事なのです。私たちも様々な器がありますが、女性は女性として、子供は子供として、その生まれその立場において無作三身という仏様の姿を現ずる事が出来るのです。無作三身とはその身その侭という意味です。信心に励んでいけば拙い我が身ではあっても尊い仏様の命を顕すことが出来るのです。

 さぁ、下種御本仏・日蓮大聖人は七四三年前に御入滅、お亡くなりになりました。
これでは滅後後世の私たちは救われないであろうところ、大聖人様は出世の本懐としてこれから御開扉を頂く本門戒壇の大御本尊様を書き顕わされました。経王殿御返事に、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(経王殿御返事・六八五)
と仰せのように御本尊様は日蓮大聖人の御法魂であります。御本尊を拝して瞭然の通り「南無妙法蓮華経 日蓮」とありますから、私たちは南無妙法蓮華経である所の日蓮大聖人を仏様として信じ拝んでいるのです。
 皆さんのご自宅にある御本尊様も全てこの戒壇の大御本尊様のお写しです。
 この大御本尊は日興上人を初めとする歴代上人に託されました。御本尊七箇之相承に、
「一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(御本尊七箇之相承・富要一―三二)
とありますように現時においては御当代・日如上人が日蓮大聖人の代わりとして大御本尊様をお守りし、また御本尊書写をなさっているのです。
 これから皆さんが頂戴する御開扉も、御法主日如上人に連なって御開扉を頂戴するのですから大聖人様の仏法を信行する我々にとって最も重要な信心の行業となるのであります。
 皆様方におかれましては以上のような有り難い御本尊様をしかも御法主上人に連なって直に拝させて頂くのだと思ってどうぞ真剣に読経唱題なさって下さい。
 さすれば必ず甚深の功徳に与ることが出来るでしょう。そして本日得た確信を以て更に折伏に励まれますことを念じまして、時間となりましたので本席のお話とさせて頂きます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました