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『蓮盛抄』


(★27㌻)
 乃至迦葉・阿難等も来たらば復当に是くの如き正法を付嘱すべし」云云。故に知んぬ、文殊・迦葉に大法を付嘱すべしと云云。仏より付嘱する処の法は小乗なり。悟性論に云はく「人心をさとる事あれば、菩提の道を得る故に仏と名づく」と。菩提に五あり、何れの菩提ぞや。得道又種々なり、何れの道ぞや。余経に明かす所は大菩提にあらず、又無上道にあらず。経に云はく「四十余年未顕真実」云云。
  問うて云はく、法華は貴賤男女何れの菩提の道を得べきや。答へて云はく「乃至一偈に於ても皆成仏疑ひ無し」云云。又云はく「正直に方便を捨てゝ但無上道を説く」云云。是に知んぬ、無上菩提なり。「須臾聞之即得究竟阿耨菩提」なり。此の菩提を得ん事、須臾も此の法門を聞く功徳なり。問うて云はく、須臾とは三十須臾を一日一夜と云ふ。「須臾聞之」の須臾は之を指すか如何。答ふ、件の如し。天台止観の二に云はく「須臾も廃すること無かれ」云云。弘決に云はく「暫くも廃することを許さず、故に須臾と云ふ。故に須臾は刹那なり」と。
  問うて云はく、本分の田地にもとづくを禅の規模とす。答ふ、本分の田地とは何者ぞや、又何れの経に出でたるぞや。法華経こそ人天の福田なれば、むねと人天を教化し給ふ。故に仏を天人師と号す。此の経を信ずる者は己身の仏を見るのみならず、過現未の三世の仏を見る事、浄頗梨に向かふに色像を見るが如し。経に云はく「又浄明の鏡に悉く諸の色像を見るが如し」云云。禅宗云はく、是心即仏・即身是仏と。答へて云はく、経に云はく「心は是第一の怨なり。此の怨最も悪と為す。此の怨能く人を縛り、送って閻羅の処に到る。汝独り地獄に焼かれて、悪業の為に養ふ所の妻子兄弟等親属も救ふこと能はじ」云云。涅槃経に云はく「願ひて心の師と作るとも、心を師とせざれ」云云。愚癡無懺の心を以て即心即仏と立つ。豈未だ得ざるを得たりと謂ひ、未だ証せざるを証せりと謂ふ人に非ずや。問ふ、法華宗の意如何。答ふ、経文に「具三十二相、乃是真実滅」云云。或は「速成就仏身」云云。禅宗は理性の仏を尊びて己仏に均しと思ひ増上慢に堕つ、定めて是阿鼻の罪人なり。故に法華経に云はく
 

平成新編御書 ―27㌻―

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