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『蓮盛抄』


(★29㌻)
 禅宗は言語を以て人に示さゞらんや。若し示さずと云はゞ、南天竺の達磨は四巻の楞伽経に依って五巻の疏を作り、慧可に伝ふる時、我、漢地を見るに但此の経のみあて人を度すべし。汝此に依って世を度すべし云云。若し爾れば猥りに教外別伝と号せんや。次に不伝の言に至りては「冷煖二途唯自ら覚了す」と云ひて文字に依るか。其の相伝の後冷煖自知するなり。是を以て法華に云はく「悪知識を捨てゝ善友に親近せよ」と。止観に云はく「師に値はざれば、邪慧日に増し生死月に甚だしく、稠林に曲木を曳くが如く、出づる期有ること無し」云云。凡そ世間の沙汰、尚以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧ろ輙く自己を本分とせんや。故に経に云はく「近きを見るべからざること人の睫の如く、遠きを見るべからざること空中の鳥の跡の如し」云云。上根上機の坐禅は且く之を置く。当世の禅宗は瓮を蒙って壁に向かふが如し。経に云はく「盲冥にして見る所無し、大勢の仏及与断苦の法を求めず。深く諸の邪見に入りて苦を以て苦を捨てんと欲す」云云。弘決に云はく「世間の顕語尚識らず、況んや中道の遠理をや。常の密教寧ろ当に識るべけんや」云云。当世の禅者皆是大邪見の輩なり。就中三惑未断の凡夫の語録を用ひて、四智円明の如来の言教を軽んずる、返す返す過てる者かな。疾の前に薬なし、機の前に教なし。等覚の菩薩尚教を用ひき、底下の愚人何ぞ経を信ぜざる云云。是を以て漢土に禅宗興ぜしかば、其の国忽ちに亡びき。本朝の滅すべき瑞相に闇証の禅師充満す。止観に云はく「此則ち法滅の妖怪、亦是時代の妖怪なり」云云。
  禅宗云はく、法華宗は不立文字の義を破す。何の故ぞ仏は一字不説と説き給ふや。答ふ、汝楞伽経の文を引くか。本法自法の二義を知らざるか。学ばずんば習ふべし。其の上彼の経に於ては未顕真実と破られ畢んぬ、何ぞ指南と為ん。問うて云はく、像法決疑経に云はく「如来の一句の法を説きたまふを見ず」云云、如何。答ふ、是は常施菩薩の言なり。法華経には「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除く、千二百の羅漢悉く亦当に作仏すべし」と云ふ。八万の菩薩も千二百の羅漢も悉く皆列座し聴聞随喜す。常施一人は見ず。何れの説に依るべき。
 

平成新編御書 ―29㌻―

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