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『諸宗問答抄』
(★32㌻)
然りと雖も華厳は別教と申すゑせせ物をつれて説かれたる間、わるき物につれたる仏慧なりとて簡ばるゝなり。方等部の円も前三教のゑせ物をつれたる仏慧なり。般若部の円も前二麁のゑせ物をつれたる仏慧なり。然る間仏慧の名は同じと雖も、過の辺に従って麁と云はれて、わるき円教の仏慧と下され候なり。之に依って四教にても真実の勝劣を判ずる時は「一往は三蔵を名づけて小乗と為し、再往は三教を名づけて小乗と為す」と釈して、一往の時は二百五十戒等の阿含・三蔵教の法門を総じて小乗の法と簡び捨てらるれども、再往の釈の時は三蔵教と、大乗と云ひつる通教と、別教との三教皆小乗法と、本朝の智証大師も法華論記と申す文を作りて判釈せられて候なり。次に絶待妙と申すは開会の法門にて候なり。此の時は爾前権教とて嫌ひ捨てらるゝ所の教を皆法華の大海におさめ入るゝなり。随って法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて嫌はるゝ者無きなり。皆法華の大海の不可思議の徳として、南無妙法蓮華経と云ふ一味にたゝきなしつる間、念仏・戒・真言・禅とて別の名言を呼び出だすべき道理曽て無きなり。随って釈に云はく「諸水海に入れば同一鹹味、諸智如実智に入らば本の名字を失ふ」等と釈して、本の名字を一言も呼び顕はすべからずと釈せられて候なり。世間の人、天台宗は開会の後は相待妙の時斥ひ捨てられし所の前四味の諸経の名言を唱ふるも、又諸仏諸菩薩の名言を唱ふるも、皆是法華の妙体にて有るなり。大海に入らざる程こそ各別の思ひなりけれ。大海に入りて後に見れば日来よしわるしと嫌ひ用ひけるは大僻見にて有りけり。嫌きらはるゝ諸流も、用ひらるゝ冷水も、源はたゞ大海より出でたる一水にて有りけり。然れば何れの水と呼びたりとても、たゞ大海の一水に於て別々の名言をよびたるにてこそあれ、各別各別の者と思ひてよぶにこそ科はあれ、只大海の一水と思ひて何れをも心に任せて有縁に従って唱へ持つに苦しかるべからずとて、念仏をも真言をも何れをも心に任せて持ち唱ふるなり。今云ふ、此の義は与へて云ふ時はさも有るべきかと覚ゆれども、奪って云ふ時は随分堕地獄の義にて有るなり。其の故は縦ひ一人此くの如く意得、何れをも持ち唱ふるとても、
平成新編御書 ―32㌻―
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