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『諸宗問答抄』
(★33㌻)
万人此の心根を得ざる時は、只例の偏見・偏情にて持ち唱ふれば、一人成仏するとも万人は皆地獄に堕つべき邪見の悪義なり。爾前に立つる所の法門の名言と其の法門の内に談ずる所の道理の所詮とは、皆是偏見・偏情によりて「邪見の稠林、若しは有若しは無等に入り」の権教なり。然れば此等の名言を以て持ち唱へ、此等の所詮の理を観ずれば偏に心得たるも心得ざるも皆大地獄に堕つべし。心得たりとて唱へ持ちたらん者は、牛跡に大海を納めたる者の如し。是僻見の者なり、何ぞ三悪道を免れん。又心得ざる者の唱へ持たんは本より迷惑の者なれば、邪見権教の執心によて無間大城に入らんこと疑ひ無き者なり。開会の後も麁教とて嫌ひ捨てし悪法をば、名言をも所詮の極理をも唱へ持って交ゆべからずと見えて候。弘決に云はく「相待・絶待倶に須く悪を離るべし。円に著する尚悪なり。況んや復余をや」云云。文の心は相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をば離るべし。円に著する尚悪し、況んや復余の法をやと云ふ文なり。円と云ふは満足の義なり、余と云ふは欠減の義なり。円教の十界平等に成仏する法をすら著したる方を悪ぞと嫌ふ。況んや復十界平等に成仏せざるの悪法の欠けたるを以て執著をなして、朝夕受持・読誦・解説・書写せんをや。設ひ爾前の円を今の法華に開会し入るゝとも、爾前の円は法華と一味となる事無し。法華の体内に開会し入れられても、体内の権と云はれて実とは云はざるなり。体内の権を体外に取り出だして、且く「一仏乗に於て分別して三と説く」とする時、権に於て円の名を付けて三乗の中の円教と云はれたるなり。之に依って古も金杖の譬へを以て三乗にあてゝ沙汰する事あり。譬へば金の杖を三つに打ちをりて、一つづつ三乗の機根に与へて、何れも皆金なり、然れば何ぞ同じ金に於て差別の思ひをなして勝劣を判ぜんやと談合したり。此はうち聞く所はさもやと覚えたれども、悪しく学者の心得たるなり。今云ふ、此の義は譬へば法華の体内の権の金杖を、仏三根にあてゝ体外に三度うちふり給へる其の影を、機根が見付けずして、皆真実の思ひを成して己が見に任せたるなり。其れ真実には金杖を打ち折りて三つになしたる事が
平成新編御書 ―33㌻―
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