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『守護国家論』


(★150㌻)
 十方の国土に於て法華経を説く所有らば、我が塔廟是の経を聴かんが為の故に其の前に涌現して為に証明を作さん」已上。 此の文の意は我等法華の名号を唱へば多宝如来本願の故に必ず来たりたまふ。又云はく「諸仏の十方世界に在って法を説くを尽く還して一処に集めたまふ」已上。 釈迦・多宝・十方の諸仏・普賢菩薩等は我等が善知識なり。若し此の義に依らば我等も亦宿善・善財・常啼・班足等にも勝れたり。彼は権経の知識に値ひ、我等は実経の知識に値へばなり。彼は権経の菩薩に値ひ、我等は実経の仏菩薩に値ひ奉ればなり。涅槃経に云はく「法に依って人に依らざれ、智に依って識に依らざれ」已上。 依法と云ふは法華・涅槃の常住の法なり。不依人とは法華・涅槃に依らざる人なり。設ひ仏菩薩たりと雖も法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況んや法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てをや。依智とは仏に依る。不依識とは等覚已下なり。今の世の世間の道俗源空の謗法の失を隠さんが為に徳を天下に挙げて権化なりと称す。依用すべからず。外道は五通を得て能く山を傾け海を竭くすとも神通無き阿含経の凡夫に及ばず。羅漢を得六通を現ずる二乗は華厳・方等・般若の凡夫に及ばず。華厳・方等・般若の等覚の菩薩も法華経の名字・観行の凡夫に及ばず。設ひ神通智慧有りと雖も権教の善知識をば用ふべからず。我等常没の一闡提の凡夫法華経を信ぜんと欲するは仏性を顕はさんが為の先表なり。故に妙楽大師の云はく「内薫に非ざるよりは何ぞ能く悟りを生ぜん。故に知んぬ、悟りを生ずる力は真如に在り、故に冥薫を以て外護と為すなり」已上。 法華経より外の四十余年の諸経には十界互具無し。十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば外の諸仏も顕はれず。故に四十余年の権行の者は仏を見ず。設ひ仏を見ると雖も他仏を見るなり。二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し。爾前の菩薩も亦自身の十界互具を見ざれば二乗界の成仏を見ず。故に衆生無辺誓願度の願も満足せず。故に菩薩も仏を見ず、凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界顕はれず。故に阿弥陀如来の来迎も無く、諸仏如来の加護も無し。譬へば盲人の自身の影を見ざるが如し。
 

平成新編御書 ―150㌻―

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