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『守護国家論』


(★157㌻)
 此の文の如くんば法華経若し邪見ならば涅槃経も豈邪見に非ずや。法華経は大収、涅槃経は捃拾なりと見え了んぬ。涅槃経は自ら法華経に劣るの由を称す。法華経の当説の文敢へて相違無し。但し迦葉の領解並びに第十四の文は法華経を下すの文に非ず。迦葉自身並びに所化の衆今始めて法華経の所説の常住仏性・久遠実成を覚る。故に我が身を指して此より已前は邪見なりと云ふ。法華経已前の無量義経に嫌はるゝ諸経を涅槃経に重ねて之を挙げて嫌ふなり。法華経を嫌ふには非ざるなり。亦涅槃論に至りては、此等の論は書き付くるが如く天親菩薩の造、菩提流支の訳なり。法華論も亦天親菩薩の造、菩提流支の訳なり。経文に違すること之多し。涅槃論も亦本経に違す。当に知るべし、訳者の誤りなり、信用に及ばず。
  問うて云はく、先の教に漏れたる者を後の教に之を承け取りて得道せしむるを流通と称せば、阿含経は華厳経の流通と成るべきや、乃至法華経は前四味の流通と成る可きや如何。答へて曰く、前四味の諸経は菩薩人天等の得道を許すと雖も決定性の二乗・無性・闡提の成仏を許さず。其の上仏意を探りて実を以て之を検ふるに亦菩薩人天等の得道も無し。十界互具を説かざるが故に、久遠実成無きが故に。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、法華経方便品に云はく「若し小乗を以て化すること乃至一人に於てもせば我則ち慳貪に堕せん。此の事は為めて不可なり」已上。 此の文の意は今選択集の邪義を破せんが為に余事を以て詮と為さず。故に爾前得道の有無の実義は之を出ださず。追って之を検ふべし。但し四十余年の諸経は実に凡夫の得道無きが故に法華経を爾前の流通と為さず。法華経に於て十界互具久遠実成を顕はし了んぬ。故に涅槃経は法華経の為に流通と成るなり。
  大文の第七に問ひに随って答ふとは、若し末代の愚人、上の六門に依って万が一も法華経を信ぜば、権宗の諸人、或は自ら惑へるに依り、或は偏執に依って法華経の行者を破せんが為に、多く四十余年並びに涅槃等の諸経を引いて之を難ぜん。而るに権教を信ずる人は之多く、或は威勢に依り、或は世間の資縁に依り、人の意に随って世路を亘らんが為にし、
 

平成新編御書 ―157㌻―

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