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『聖愚問答抄㊤』


(★391㌻)
 地蔵・普賢・文殊・日月星、二所と三島と熊野と羽黒と天照太神と八幡大菩薩と、此等の名を一遍も唱へん人は念仏を十万遍百万遍申したりとも、此の仏菩薩・日月神等の名を唱ふる過に依って、無間にはおつとも往生すべからずと云云。我世間を見るに念仏を申す人も、此等の諸仏・菩薩・諸天善神の名を唱ふる故に、是又師の教へに背けり。第五の賛歎供養雑行とは、念仏申さん人は供養すべき仏は弥陀三尊を供養せん外は、上に挙ぐる所の仏菩薩・諸天善神に香華のすこしをも供養せん人は、念仏の功は貴とけれども、此の過に依って雑行に摂すと是をきらふ。然るに世をみるに、社壇に詣でては幣帛を捧げ、堂舎に臨みては礼拝を致す、是又師の教へに背けり。汝若し不審ならば選択を見よ、其の文明白なり。又善導和尚の観念法門経に云はく「酒肉五辛誓って発願して手に捉らざれ、口に喫まざれ、若し此の語に違せば、即ち身口倶に悪瘡を著けんと願ぜよ」文。此の文の意は念仏申さん男女・尼法師は酒を飲まざれ魚鳥を食はざれ、其の外にらひる等の五つのからくくさき物を食はざれ。是を持たざる念仏者は今生には悪瘡身に出で、後生には無間に堕すべしと云云。然るに念仏申す男女・尼法師此の誡めをかへりみず、恣に酒をのみ魚鳥を食ふ事、剣を飲む譬へにあらずや。
  爰に愚人云はく、誠に是此の法門を聞くに、念仏の法門実に往生すと雖も其の行儀修行し難し。況んや彼の憑む所の経論は皆以て権説なり、往生すべからざるの条分明なり。但真言を破する事は其の謂はれ無し。夫大日経とは大日覚王の秘法なり。大日如来より系も乱れず、善無畏・不空之を伝へ、弘法大師は日本に両界の曼荼羅を弘め、尊高三十七尊秘奥なる者なり。然るに顕教の極理は尚密教の初門にも及ばず。爰を以て後唐院は「法華尚及ばず況んや自余の教をや」と釈し給へり。此の事如何が心うべきや。
  聖人示して云はく、予も始めは大日に憑みを懸け、密宗に志を寄す。然れども彼の宗の最底を見るに其の立義も亦謗法なり。汝が云ふ所の高野の大師は嵯峨天皇の御宇の人師なり。然るに皇帝より仏法の浅深を判釈すべき由の宣旨を給ひて、
 

平成新編御書 ―391㌻―

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