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『法門申さるべき様の事』


(★428㌻)
  さて法華経にうつり候はんは四十余年の経々をすてゝ遷り候べきか、はた又かの経々並びに南無阿弥陀仏等をばすてずして遷り候べきかとをぼしきところに、凡夫の私の計らひ是非につけてをそれあるべし。仏と申す親父の仰せを仰ぐべしとまつところに、仏定めて云はく「正直捨方便」等云云。方便と申すは無量義経に未顕真実と申す上に以方便力と申す方便なり。以方便力の方便の内に浄土三部経等の四十余年の一切経は一字一点も漏るべからざるか。されば四十余年の経々を捨てゝ法華経に入らざらん人々は世間の孝不孝はしらず、仏法の中には第一の不孝の者なるべし。故に第二譬喩品に云はく「今此の三界は、乃至復詔すと雖も、而も信受せず」等云云。四十余年の経々をすてずして法華経に並べて行ぜん人々は主師親の三人のをほせを用ひざる人々なり。
  教と申すは師親のをしえ、詔と申すは主上の詔勅なるべし。仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり。されば四十余年の経々につきて法華経へうつらず、又うつれる人々も彼の経々をすてゝうつらざるは、三徳を備へたる親父の仰せを用ひざる人、天地の中にすむべき者にはあらず。この不孝の人の住処を経の次下に定めて云はく「若し人信ぜず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云。設ひ法華経をそしらずとも、うつり付かざらむ人々、不孝の失疑ひなかるべし。不孝の者は又悪道疑ひなし。故に仏は「入阿鼻獄」と定め給ひぬ。何に況んや爾前の経々に執心を固くなして法華経へ遷らざるのみならず、善導が千中無一、法然が捨閉閣抛とかけるは、あに阿鼻地獄を脱るべしや。其の所化並びに檀那は又申すに及ばず。
  「復教詔すと雖も、而も信受せず」と申すは孝に二つあり。世間の孝の孝不孝は外典の人々これをしりぬべし。内典の孝不孝は設ひ論師等なりとも、実経を弁へざる権経の論師の流れを受けたる末の論師なんどは、後生しりがたき事なるべし。何に況んや末々の人々をや。
  涅槃経の三十四に云はく「人身を受けん事は爪上の土、三悪道に堕ちん事は十方世界の土、
 

平成新編御書 ―428㌻―

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