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『生死一大事血脈抄』


(★513㌻)
 №0111
     生死一大事血脈抄   文永九年二月一一日  五一歳
 
                      日蓮之を記す
  御状委細被見せしめ候ひ畢んぬ。夫生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり。其の故は釈迦多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給ひて、此の妙法蓮華経の五字過去遠々劫より已来寸時も離れざる血脈なり。妙は死、法は生なり、此の生死の二法が十界の当体なり、又此を当体蓮華とも云ふなり。天台云はく「当に知るべし依正の因果は悉く是蓮華の法なり」云云。此の釈に依正と云ふは生死なり、生死之有れば因果又蓮華の法なる事明らけし。伝教大師云はく「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」文。天地・陰陽・月日・五星・地獄乃至仏果、生死の二法に非ずと云ふことなし。是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり。天台の止観に云はく「起は是法性の起、滅は是法性の滅」云云。釈迦多宝の二仏も生死の二法なり。然れば久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経と、我等衆生との三つ全く差別無しと解りて、妙法蓮華経と唱へ奉る処を生死一大事の血脈とは云ふなり。此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは是なり。所詮臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を「是人命終為千仏授手、令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候。悦ばしいかな一仏二仏に非ず、百仏二百仏に非ず、千仏まで来迎し手を取り給はん事、歓喜の感涙押へ難し。法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば、定めて獄卒迎えに来たって手をや取り候はんずらん。浅猿浅猿、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。
  今日蓮が弟子檀那等南無妙法蓮華経と唱へん程の者は、千仏の手を授け給はん事、誓へば蓏・
 
 

平成新編御書 ―513㌻―

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