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『開目抄㊤』


(★527㌻)
 倶舎・成実・律宗等は阿含経によれり。六界を明らめて四界をしらず。十方唯有一仏と云って、一方有仏だにもあかさず。一切有情悉有仏性とこそとかざらめ。一人の仏性猶ゆるさず。而るを律宗・成実宗等の十方有仏・有仏性なんど申すは仏滅後の人師等の大乗の義を自宗に盗み入れたるなるべし。例せば外典外道等は仏前の外道は執見あさし。仏後の外道は仏教をきゝみて自宗の非をしり、巧みの心出現して仏教を盗み取り、自宗に入れて邪見もっともふかし。附仏教、学仏法成等これなり。外典も又々かくのごとし。漢土に仏法いまだわたらざりし時の儒家・道家は、いういうとして嬰児のごとくはかなかりしが、後漢已後に釈教わたりて対論の後、釈教漸く流布する程に、釈教の僧侶破戒のゆへに、或は還俗して家にかへり、或は俗に心をあはせ、儒道の内に釈教を盗み入れたり。止観の第五に云はく「今の世に多く悪魔の比丘有って、戒を退き家に還り、駈策を懼畏して更に道士に越済す。復名利を邀めて荘老を誇談し、仏法の義を以て偸んで邪典に安き、高を押して下きに就け、尊きを摧いて卑しきに入れ、概して平等ならしむ」云云。弘に云はく「比丘の身と作って仏法を破滅す。若しは戒を退き家に還るは衛の元嵩等が如し。即ち在家の身を以て仏法を破壊す。此の人正教を偸竊して邪典に助添す。高きを押して等とは、道士の心を以て二教の概と為し、邪正をして等しからしむ。義是の理無し。曾て仏法に入って正を偸んで邪を助け、八万・十二の高きを押して五千・二篇の下きに就け、用て彼の典の邪鄙の教へを釈するを摧尊入卑と名づく」等云云。此の釈を見るべし。次上の心なり。
  仏教又かくのごとし。後漢の永平に漢土に仏法わたりて、邪典やぶれて内典立つ。内典に南三北七の異執をこりて蘭菊なりしかども、陳隋の智者大師にうちやぶられて、仏法二び群類をすくう。其の後法相宗・真言宗天竺よりわたり、華厳宗又出来せり。此等の宗々の中に法相宗は一向天台宗に敵を成す宗、法門水火なり。しかれども玄奘三蔵・慈恩大師、委細に天台の御釈を見ける程に、自宗の邪見ひるがへるかのゆへに、
 

平成新編御書 ―527㌻―

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