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『開目抄㊤』


(★530㌻)
 所謂二乗の無為広大の深坑に堕つると、及び善根を壊る非器の衆生の大邪見貪愛の水に溺るゝとなり」等云云。此の経文の心は雪山に大樹あり、無尽根となづく。此を大薬王樹と号す。閻浮提の諸木の中の大王なり。此の木の高さは十六万八千由旬なり。一閻浮提の一切の草木は此の木の根ざし枝葉華果の次第に随つて、華果なるなるべし。此の木をば仏の仏性に譬へたり。一切衆生をば一切の草木にたとう。但し此の大樹は火坑と水輪の中に生長せず。二乗の心中をば火坑にたとえ、一闡提人の心中をば水輪にたとえたり。此の二類は永く仏になるべからずと申す経文なり。
  大集経に云はく「二種の人有り。必ず死して活きず、畢竟して恩を知り恩を報ずること能はず。一には声聞、二には縁覚なり。譬へば人有りて深坑に墜堕せん、是の人自ら利し他を利すること能はざるが如く、声聞縁覚も亦復是の如し。解脱の坑に堕ちて自ら利し及以他を利すること能はず」等云云。外典三千余巻の所詮に二つあり。所謂孝と忠となり。忠も又孝の家よりいでたり。孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何に況んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし。其の上舎利弗・迦葉等の二乗は二百五十戒・三千の威儀持整して、味・浄・無漏の三靜慮、阿含経をきわめ、三界の見思るを尽くせり。知恩報恩の人の手本なるべし。然るを不知恩の人なりと世尊定め給ひぬ。其の故は父母の家を出でて出家の身となるは必ず父母をすくはんがためなり。二乗は自身は解脱とをもえども、利他の行かけぬ。設ひ分々の利他ありといえども、父母等を永不成仏の道に入るれば、かへりて不知恩の者となる。
  維摩経に云はく「維摩詰又文殊師利に問ふ、何等をか如来の種と為す。答へて曰く、一切塵労の疇は如来の種と為る。五無間を以て具すと雖も猶能く此の大道意を発こす」等云云。又云はく「譬へば族姓の子、高原陸土には青蓮芙蓉衡華を生ぜず、卑湿汚田に乃ち此の華を生ずるが如し」等云云。又云はく「已に阿羅漢を得て応真と為る者は、終に復道意を起こして仏法を具すること能はざるなり。根敗の士其の五楽に於て復利すること能はざるが如し」等云云。文の心は貪・瞋・癡の三毒は仏の種となるべし、殺父等の五逆罪は仏種となるべし、高原の陸土には青蓮華生ずべし、二乗は仏になるべからず。いう心は、二乗の諸善と凡夫の悪と相対するに、凡夫の悪は仏になるとも、二乗の善は仏にならじとなり。諸の小乗経には、悪をいましめ善をほむ。此の経には二乗の善をそしり、凡夫の悪をほめたり。かへって仏経ともおぼへず、外道の法門のやうなれども、詮ずるところは、二乗の永不成仏をつよく定めさせ給ふにや。
  方等陀羅尼経に云はく「文殊、舎利弗に語らく、猶枯樹の如き更に華を生ずるや不や。亦山水の如き本処に還るや不や。折石還って合ふや不や。焦種芽を生ずるや不や。舎利弗の言はく、不なり。文殊の言はく、
 

平成新編御書 ―530㌻―

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