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『開目抄㊤』
(★536㌻)
迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮かべるににたり。本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門十界の因果をとき顕はす。此即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。
かうてかへりみれば、華厳経の台上十方、阿含経の小釈迦、方等・般若の、金光明経の、阿弥陀経の、大日経等の権仏等は、此の寿量の仏の天月、しばらく影を大小の器にして浮かべ給ふを、諸宗の学者等、近くは自宗に迷ひ、遠くは法華経の寿量品をしらず。水中の月に実月の想ひをなし、或は入って取らんとをもひ、或は縄をつけてつなぎとゞめんとす。天台云はく「天月を識らず、但池月を観ず」等云云。
日蓮案じて云はく、二乗作仏すら猶爾前づよにをぼゆ。久遠実成は又にるべくもなき爾前づりなり。其の故は爾前・法華相対するに猶爾前こわき上、爾前のみならず、迹門十四品も一向に爾前に同ず。本門十四品も涌出・寿量の二品を除きては皆始成を存せり。双林最後の大般涅槃経四十巻、其の外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず。いかんが広博の爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経をばすてゝ、但涌出・寿量の二品には付くべき。
されば法相宗と申す宗は、西天の仏滅後九百年に無著菩薩と申す大論師有しき。夜は都率の内院にのぼり、弥勒菩薩に対面して一代聖教の不審をひらき、昼は阿輸舎国にして法相の法門を弘め給ふ。彼の御弟子は世親・護法・難陀・戒賢等の大論師なり。戒日大王頭をかたぶけ、五天幢を倒して此に帰依す。尸那国の玄奘三蔵月氏にいたりて十七年、印度百三十余の国々を見きゝて、諸宗をばふりすて、此の宗を漢土にわたして太宗皇帝と申す賢王にさづけ給ひ、
平成新編御書 ―536㌻―
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