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『開目抄㊤』


(★566㌻)
 しかれども一千年のことをしる。はたして仏教一千一十五年と申せし、後漢の第二明帝の永平十年丁卯の年、仏法漢土にわたる。此は似るべくもなき、釈迦・多宝・十方分身の仏の御前の諸菩薩の未来記なり。当世日本国に、三類の法華経の敵人なかるべしや。されば仏、付法蔵経等に記して云はく「我が滅後に正法一千年が間、我が正法を弘むべき人、二十四人次第に相続すべし」と。迦葉・阿難等はさてをきぬ。一百年の脇比丘、六百年の馬鳴、七百年の龍樹菩薩等一分もたがわず、すでに出で給ひぬ。此の事いかんがむなしかるべき。此の事相違せば一経皆相違すべし。所謂、舎利弗が未来の華光如来、迦葉の光明如来も皆妄説となるべし。爾前返って一定となって、永不成仏の諸声聞なり。犬野干をば供養すとも、阿難等をば供養すべからずとなん。いかんがせんいかんがせん。
  第一の有諸無智人と云ふは、経文の第二の悪世中比丘と第三の納衣の比丘の大檀那等と見へたり。随って妙楽大師は「俗衆」等云云。東春に云はく「公処に向かふ」等云云。第二の法華経の怨敵は、経に云はく「悪世中の比丘は、邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん」等云云。涅槃経に云はく「是の時に当に諸の悪比丘有るべし。乃至、是の諸の悪人、復是くの如き経典を読誦すと雖も、如来深密の要義を滅除せん」等云云。止観に云はく「若し信無きは高く聖境に推して己が智分に非ずとす。若し智無きは増上慢を起こして、己れ仏に均しと謂ふ」等云云。道綽禅師が云はく「二に理深解微なるに由る」等云云。法然云はく「諸行は機に非ず、時を失ふ」等云云。記の十に云はく「恐くは人謬り解せん者、初心の功徳の大なること識らずして、功を上位に推り、此の初心を蔑ろにせん。故に今、彼の行浅く功深きことを示して、以て経力を顕はす」等云云。伝教大師云はく「正像稍過ぎ已はって、末法太だ近きに有り。法華一乗の機、今正しく是其の時なり。何を以て知ることを得る。安楽行品に云はく末世法滅の時なり」等云云。慧心の云はく「日本一州円機純一なり」等云云。道綽と伝教と法然と慧心と、いづれ此を信ずべしや。彼は一切経に証文なし。此は正しく法華経によれり。
 

平成新編御書 ―566㌻―

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