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『観心本尊抄』


(★652㌻)
 王及び夫人の愛心偏に重くして常に与みし共に語らん。所以は何、稚小なるを以ての故にといはんが如く、善男子是の持経者も亦復是くの如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず、若し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句若しは一偈、若しは一転若しは二転、若しは十若しは百、若しは千若しは万、若しは億万恒河沙無量無数転せば、復真理の極を体すること能はずと雖も、乃至已に一切の四衆八部に宗み仰がれ、諸の大菩薩を以て眷属と為ん、乃至常に諸仏に護念せられ慈愛偏に覆はれん。新学なるを以ての故に」等云云。普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目なり、乃至三世の諸の如来を出生する種なり、乃至汝大乗を行じて仏種を断ぜざれ」等云云。又云はく「此の方等経は是諸仏の眼なり、諸仏是に因って五眼を具することを得、仏の三種の身は方等より生ず、是大法印にして涅槃海に印す。此くの如き海中能く三種の仏の清浄の身を生ず、此の三種の身は人天の福田なり」等云云。夫以れば、釈迦如来の一代、顕密・大小の二教、華厳・真言等の諸宗の依経、往いて之を勘ふるに、或は十方台葉の毘盧遮那仏、大集雲集の諸仏如来、般若染浄の千仏示現、大日・金剛頂等の千二百尊、但其の近因近果を演説して其の遠の因果を顕はさず、速疾頓成之を説けども三・五の遠化を亡失し、化導の始終跡を削りて見えず。華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵等に似たれども、再往之を勘ふれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず。本有の三因之無し、何を以てか仏の種子を定めん。而るに新訳の訳者等漢土に来入するの日、天台の一念三千の法門を見聞して、或は自らの所持の経々に添加し、或は天竺より受持するの由之を称す。天台の学者等或は自宗に同ずるを悦び、或は遠きを貴びて近きを蔑り、或は旧を捨てゝ新を取り、魔心・愚心出来す。然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば、有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。
  問うて曰く、上の大難未だ其の会通を聞かず如何。答へて曰く、無量義経に云はく「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」等云云。
 

平成新編御書 ―652㌻―

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