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『呵責謗法滅罪抄』


(★717㌻)
 此の国此の両三年が間の乱政は先代にもきかず、法に過ぎてこそ候へ。
  抑悲母の孝養の事、仰せ遣はされ候。感涙押さへ難し。昔元重等の五童は五郡の異姓の他人なり。兄弟の契りをなして互ひに相背かざりしかば、財三千を重ねたり、我等親と云ふ者なしと歎きて、途中に老女を儲けて母と崇めて、一分も心に違はずして二十四年なり。母忽ちに病に沈んで物いはず。五子天に仰ひで云はく、我等孝養の感無くして母もの云はざる病あり。願くは天孝の心を受け給はゞ、此の母に物いはせ給へと申す。其の時に母五子に語って云はく、我は本是太原の陽猛と云ふものゝ女なり、同郡の張文堅に嫁す、文堅死にき。我に一の児あり、名をば烏遺と云ひき。彼が七歳の時、乱に値ひて行く処をしらず。汝等五子に養はれて二十四年此の事を語らず。我が子は胸に七星の文あり、右の足の下に黒子ありと語り畢って死す。五子葬りをなす途中にして国令の行くにあひぬ。彼の人物記する嚢を落とせり。此の五童が取れるになして禁め置かれたり。令来たって問うて云はく、汝等は何くの者ぞ。五童答へて云はく、上に言へるが如し。爾の時に令上よりまろび下りて天に仰ぎ地に泣く。五人の縄をゆるして我が座に引き上せて物語して云はく、我は是烏遺なり。汝等は我が親を養ひけるなり。此の二十四年の間多くの楽しみに値へども、悲母の事をのみ思ひ出でて楽しみも楽しみならず。乃至大王の見参に入れて五県の主と成せりき。他人集って他の親を養ふに是くの如し。何に況んや同父同母の舎弟妹女等がいういうたるを顧みば、天も争でか御納受なからんや。
  浄蔵・浄眼は法華経をもて邪見の慈父を導き、提婆達多は仏の御敵、四十余年の経々にて捨てられ、臨終悪しくして大地破れて無間地獄に行きしかども、法華経にて召し還して天王如来と記せらる。阿闍世王は父を殺せども仏涅槃の時法華経を聞いて阿鼻の大苦を免れき。
  例せば此の佐渡国は畜生の如くなり。又法然が弟子充満せり。鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候。
 

平成新編御書 ―717㌻―

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