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『三三藏祈雨事』


(★875㌻)
 万民たなごころをあわせたり。しかも大雨にもあらず風もふかず、甘雨にてありしかば、陳王、大師の御前にをはしまして、内裏へかへらんことをわすれ給ひき。此の時、三度の礼拝はありしなり。
  去ぬる弘仁九年の春大旱魃ありき。嵯峨の天王、真綱と申す臣下をもって冬嗣のとり申されしかば、法華経・金光明経・仁王経をもって伝教大師祈雨ありき。三日と申せし日、ほそきくも、ほそきあめしづしづと下りしかば、天子あまりによろこばせ給ひて、日本第一のかたことたりし大乗の戒壇はゆるされしなり。伝教大師の御師、護命と申せし聖人は南都第一の僧なり。四十人の御弟子あひぐして仁王経をもって祈雨ありしが、五日と申せしに雨下りぬ。五日はいみじき事なれども、三日にはをとりて而も雨あらかりしかば、まけにならせ給ひぬ。此をもって弘法の雨をばすひせさせ給ふべし。かく法華経はめでたく、真言はをろかに候に、日本のほろぶべきにや、一向真言にてあるなり。隠岐の法王の事をもってをもうに、真言をもって蒙古とへぞとをでうぶくせば、日本国やまけんずらんとすひせしゆへに、此の事いのちをすてゝいゐてみんとをもひしなり。いゐし時はでしらせいせしかども、いまはあひぬれば心よかるべきにや。漢土・日本の智者五百余年が間、一人もしらぬ事をかんがへて候なり。善無畏・金剛智・不空等の祈雨に雨は下りて而も大風のそひ候は、いかにか心へさせ給ふべき。外道の法なれども、いうにかひなき道士の法にも雨下る事あり。まして仏法は小乗なりとも、法のごとく行なふならば、いかでか雨下らざるべき。いわうや大日経は華厳・般若にこそをよばねども、阿含にはすこしまさりて候ぞかし。いかでかいのらんに雨下らざるべき。されば雨は下りて候へども大風のそいぬるは、大なる僻事のかの法の中にまじわれるなるべし。弘法大師の三七日に雨下らずして候を、天子の雨を我が雨と申すは又善無畏等よりも大いにまさる失のあるなり。第一の大妄語には弘法大師の自筆に云はく「弘仁九年の春、疫れいをいのりてありしかば、夜中に日いでたり」云云。かゝるそらごとをいう人なり。此の事は日蓮が門家第一の秘事なり。
 

平成新編御書 ―875㌻―

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