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『妙密上人御消息』


(★967㌻)
 此の経をば等覚の菩薩・文殊・弥勒・観音・普賢までも輙く一句一偈をも持つ人なし。唯仏与仏と説き給へり。されば華厳経は最初の頓説、円満の経なれども、法慧等の四菩薩に説かせ給ふ。般若経は又華厳経程こそなけれども、当分は最上の経ぞかし。然れども須菩提これを説く。但法華経計りこそ、三身円満の釈迦の金口の妙説にては候なれ。されば普賢・文殊なりとも輙く一句一偈をも説き給ふべからず。何に況んや末代の凡夫我等衆生は一字二字なりとも自身には持ちがたし。諸宗の元祖等法華経を読み奉れば、各々其の弟子等は我が師は法華経の心を得給へりと思へり。然れども詮を論ずれば、慈恩大師は深密経・唯識論を師として法華経をよみ、嘉祥大師は般若経・中論を師として法華経をよむ。杜順・法蔵等は華厳経・十住毘婆沙論を師として法華経をよみ、善無畏・金剛智・不空等は大日経を師として法華経をよむ。此等の人々は各法華経をよめりと思へども、未だ一句一偈もよめる人にはあらず。詮を論ずれば、伝教大師ことはりて云はく「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠が昼を夜と見るが如し。又赤き面の者は白き鏡も赤しと思ひ、太刀に顔をうつせるもの円かなる面をほそながしと思ふに似たり。
  今日蓮は然らず。已今当の経文を深くまぼり、一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む。麻の中の蓬、墨うてる木の自体は正直ならざれども、自然に直ぐなるが如し。経のまゝに唱ふればまがれる心なし。当に知るべし、仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか。又それ他人の弘めさせ給ふ仏法は皆師より習ひ伝へ給へり。例せば鎌倉の御家人等の御知行、所領の地頭、或は一町二町なれども皆故大将家の御恩なり。何に況んや百町千町一国二国を知行する人々をや。賢人と申すはよき師より伝へたる人、聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり。仏滅後、月氏・漢土・日本国に二人の聖人あり。所謂天台・伝教の二人なり。此の二人をば聖人とも云ふべし。又賢人とも云ふべし。天台大師は南岳に伝へたり、是は賢人なり。道場にして自解仏乗し給ひぬ、
 

平成新編御書 ―967㌻―

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