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『報恩抄』


(★1029㌻)
 大山のくずれて谷をうむるがごとく、我が国他国にせめらるヽ事出来すべし。
  此の事日本国の中に但日蓮一人計りしれり。いゐいだすならば殷の紂王の比干が胸をさきしがごとく、夏の桀王の竜蓬が頚を切りしがごとく、檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ねしがごとく、竺の道生が流されしがごとく、法道三蔵のかなやきをやかれしがごとくならんずらんとは、かねて知りしかども、法華経には「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」ととかれ、涅槃経には「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さヾれ」といさめ給えり。今度命ををしむならばいつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をもすくひ奉るべきと、ひとへにをもひ切りて申し始めしかば、案にたがはず或は所をおひ、或はのり、或はうたれ、或は疵をかうふるほどに、去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気をかうふりて、伊豆国伊東にながされぬ。又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。
  其の後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起こるがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我が身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も此には及ばじとをぼゆ。日本六十六箇国、島二つの中に、一日片時も何れの所にすむべきやうもなし。古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事、羅云のごとくなる持戒の聖人も、富楼那のごとくなる智者も、日蓮に値ひぬれば悪口をはく。正直にして魏微・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう。いわうや世間の常の人々は犬のさるをみたるがごとく、猟師が鹿をこめたるににたり。日本国の中に一人として故こそあるらめという人なし。道理なり。人ごとに念仏を申す、人に向かふごとに念仏は無間に堕つるというゆへに。人ごとに真言を尊む、真言は国をほろぼす悪法という。国主は禅宗を尊む、日蓮は天魔の所為というゆへに。我と招けるわざわひなれば人ののるをもとがめず。とがむとても一人ならず。打つをもいたまず、本より存ぜしがゆへに。かういよいよ身もをしまずせめしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人につき、或はきり女房につき、
 

平成新編御書 ―1029㌻―

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