←次へ
TOPへ↑
前へ→
『秀句十勝抄』
(★1347㌻)
天台の三徳に同じて数息三諦の義あり。其の毘廬遮那経の疏第七の下に云はく、三落叉とは是数なり。数は是世間なり。出世の落叉は是見なり。三相とは謂はく字と印と本尊となり。随って其の一を取るに一合の相是なり。字と印と尊と等しく、身と語と心と等しきをば実相を見ると名づく。乃至能く持誦せしむとは、浄ければ一切の罪をして除かしむ。若し浄からざれば更に一月等しく前の如くするなり。所説の念誦の数とは上の文に牒するなり。此の法則に異なるべからざるなり。是の故に耳をして聞かしめ、息出づる時は字出で、入る時は字入り、息に随って出入せしむるなり。今謂はく、天台の誦経は是円頓の数息なりとは是此の意なり○猶天台の法身・般若・解脱の義の如し」云云。
「天竺の名僧大唐に天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪へたりと聞いて、渇仰訪問する縁。法華文句の記の第十巻の末に云はく、適江淮の四十余僧と往いて台山を礼す、因って不空三蔵の門人含光、勅を奉じて山に在りて修造するを見るに云はく、不空三蔵と親り天竺に遊ぶ、彼に僧あり、問うて曰はく、大唐に天台の教迹有り、最も邪正を簡び偏円を暁らむるに堪へたり、能く之を訳して将って此の土に至るべしやと。豈中国に法を失って之を四維に求むるに非ずや。而も此方に識ること有る者少なり、魯人の如きのみ。故に徳を厚うし道に向かふ者之を仰いで敬はざるは莫し。願はくは学者行者随力称讃せよ。応に知るべし、自行は人を兼ね並びに他典に異なることを」と。
吉蔵等一百余人の天台の請する言。「千年の興、五百の実、復今日に在り。南岳の叡聖、天台の明哲、昔は三業に住持し、今は二尊に紹係す。豈止甘露を振旦に灑ぐのみならん、亦当に法鼓を天竺に震ふべし。生知の妙悟、魏晋以来典籍風謠実に連類無し」と。
律宗道宣の天台を讃むる語。「法華を照了すること高輝の幽谷に臨むが若く、
平成新編御書 ―1347㌻―
provided by