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『上野殿御返事』


(★1360㌻)
 法華経の題目をはなれて成仏ありといふ人は、仏説なりとも用ゆべからず。何に況んや人師の義をや。爰に日蓮思ふやう、提婆品を案ずるに提婆は釈迦如来の昔の師なり。昔の師は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり。古今能所不二にして法華の深意をあらはす。されば悪逆の達多には慈悲の釈迦如来、師となり、愚癡の竜女には智慧の文殊、師となり、文殊・釈迦如来にも日蓮をとり奉るべからざるか。日本国の男は提婆がごとく、女は竜女にあひにたり。逆順ともに成仏を期すべきなり。是提婆品の意なり。
  次に勧持品に八十万億那由他の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり。誰か出でて日本国・唐土・天竺三国にして、仏の滅後によみたる人やある。又我よみたりとなのるべき人なし。又あるべしとも覚へず。「及加刀杖」の刀杖の二字の中に、もし杖の字にあう人はあるべし。刀の字にあひたる人をきかず。不軽菩薩は「杖木瓦石」と見へたれば杖の字にあひぬ、刀の難はきかず。天台・妙楽・伝教等は「刀杖不加」と見へたれば是又かけたり。日蓮は刀杖の二字ともにあひぬ。剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜の口となり。一度もあう人なきなり。日蓮は二度あひぬ。杖の難には、すでにせうばうにつらをうたれしかども、第五の巻をもてうつ。うつ杖も第五の巻、うたるべしと云ふ経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり。さればせうばうに、日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には、法華経の故とはをもへども、いまだ凡夫なればうたてかりける間、つえをもうばひ、ちからあるならば、ふみをりすつべきことぞかし。然れどもつえは法華経の五の巻にてまします。
  いまをもひいでたる事あり。子を思ふ故にや、をやつきの木の弓をもて、学文せざりし子にをしへたり。然る間此の子うたてかりしは父、にくかりしはつきの木の弓。されども終には修学増進して自身得脱をきわめ、又人を利益する身となり、立ち還って見れば、つきの木をもて我をうちし故なり。此の子そとばに此の木をつくり、父の供養のためにたて、てむけりと見へたり。日蓮も又かくの如くあるべきか。
 

平成新編御書 ―1360㌻―

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