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『新池殿御消息』


(★1365㌻)
  但し日蓮が愚眼にてやあるらん。又宿習にてや候らん。「法華経最第一」「已今当説難信難解」「唯我一人能為救護」と説かれて候文は如来の金言なり。敢へて私の言にはあらず。当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思ひ、或は法華経に肩を並べて斉しと思ひ、或は勝れたり、或は劣るなれども機にかなへりと思へり。しかるに如来の聖教に随他意・随自意と申す事あり。譬へば子の心に親の随ふをば随他意と申す。親の心に子の随ふをば随自意と申す。諸経は随他意なり、仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に。法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。諸経は仏説なれども、是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり、仏智なり。一字一点も深く信ずれば我が身即ち仏となる。譬へば白紙を墨に染むれば黒くなり、黒漆に白き物を入るれば白くなるが如し。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる、故に妙法と申す。
  然るに今の人々は高きも賤しきも、現在の父たる釈迦仏をばかろしめて、他人の縁なき阿弥陀を重んじ奉るは是不孝の失にあらずや、是謗法の人にあらずやと申せば、日本国の人一同に怨ませ給ふなり。其れもことはりなり。まがれる木はすなをなる縄をにくみ、いつはれる者はたゞしき政りごとをば心にあはず思ふなり。我が朝人王九十一代の間に謀叛の人々は二十六人なり。所謂大山の王子・大石の小丸、乃至将門・悪左府等なり。此等の人々は吉野とつ河の山林にこもり、筑紫・鎭西の海中に隠るれば、島々のえびす、浦々のものゝふどもうたんとす。然れどもそれは貴き聖人、山々・寺々・社々の法師・尼・女人はいたう敵と思ふ事なし。日蓮をば上下の男女・尼法師・貴き聖人なんど云はるゝ人々は殊に敵となり候。
  其の故はいづれも後世をば願へども、男女よりは僧尼こそ願ふ由はみえ候へ。彼等は往生はさてをきぬ。今生の世をわたるなかだちとなる故なり。智者聖人は又我好し我勝れたりと申し、本師の跡と申し、所領と申し、名聞利養を重くしてまめやかに、道心は軽し。仏法はひがさまに心得て愚癡の人なり、謗法の人なりと、
 

平成新編御書 ―1365㌻―

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