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『三世諸仏総勘文教相廃立』


(★1414㌻)
  是の故に心外無別法と云ふ。此を一切の法は皆是仏法なりと通達解了すと云ふなり。生と死と二つの理は生死の夢の理なり。妄想なり倒なり。本覚の寤を以て我が心性を糾さば、生ずべき始めも無きが故に、死すべき終はりも無し。既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭にも射られず。芥子の中に入るれども芥子も広からず、心法も縮まらず。虚空の中に満つれども虚空も広からず、心法も狭からず。善に背くを悪と云ひ、悪に背くを善と云ふ。故に心の外に善無く悪無し。此の善と悪とを離るゝを無記と云ふなり。善悪無記、此の外には心無く、心の外には法無きなり。故に善悪も浄穢も凡夫聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す。心に分別して思ひ、言ひ顕はす言語なれば、心の外に分別も無し。分別も無ければ言と云ふは心の思ひを響かして声に顕はすを云ふなり。凡夫は我が心に迷ふて知らず覚らざるなり。仏は之を悟り顕はして神通と名づくるなり。神通とは神の一切の法に通じて碍り無きなり。此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。故に狐狸も分々に通を現ずること、皆心の神の分々の悟りなり。此の心の一法より国土世間も出来する事なり。一代聖教とは此の事を説きたるなり。此を八万四千の法蔵とは云ふなり。是皆悉く一人の身中の法門にて有るなり。然れば八万四千の法蔵は、我が身一人の日記文書なり。此の八万の法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり。我が身中の心を以て仏と法と浄土とを、我が身より外に思ひ願ひ求むるを迷ひとは云ふなり。此の心が善悪の縁に値ひて善悪の法をば造り出だせるなり。華厳経に云はく「心は工みなる画師の種々の五陰を造るが如く、一切世間の中に法として造らざることなし。心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり。心の外に別の法無し。心仏及び衆生是の三差別無し」已上。無量義経に云はく「無相不相の一法より無量義を出生す」已上。無相不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり。文句に釈して云はく「生滅無常の相無きが故に無相と云ふなり。二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云ふなり」云云。
 

平成新編御書 ―1414㌻―

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