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『三世諸仏総勘文教相廃立』


(★1415㌻)
 心の不思議を以て経論の詮要と為るなり。此の心を悟り知るを名づけて如来と云ふ。之を悟り知って後は十界は我が身なり、我が心なり、我が形なり。本覚の如来は我が身心なるが故なり。之を知らざる時を名づけて無明と為す。無明は明らかなること無しと読むなり。我が心の有り様を明らかに覚らざるなり。之を悟り知る時を名づけて法性と云ふ。故に無明と法性とは一心の異名なり。名と言は二なりと雖も心は只一つ心なり。斯れに由りて無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失ふべきが故に。総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆是仏法なりと云ふなり。
  法華経に云はく「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来、如是性一切衆生の心性本覚の報身如来、如是体一切衆生の身体本覚の法身如来」と。此の三如是より後の七如是出生して合して十如是と成るなり。此の十如是は十法界なり。此の十法界は一人の心より出でて八万四千の法門と成るなり。一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し。三世の諸仏の総勘文にして御判慥かに印たる正本の文書なり。仏の御判とは実相の一印なり。印とは判の異名なり。余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず。全く実の仏無し。実の仏無きが故に夢中の文書なり。浄土に無きが故なり。十法界は十なれども十如是は一なり。譬へば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し。九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し。仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し。是の故に仏界の一つの十如是顕はれぬれば、九法界の十如是の水中の月の如きも、一も欠減無く同時に皆顕はれて、体と用と一具にして一体の仏と成る。十法界を互ひに具足して平等なる十界の衆生なれば、虚空の本月も水中の末月も、一人の身中に具足して欠くること無し。故に十如是は本末究竟して等しく差別無し。本とは衆生の十如是なり。末とは諸仏の十如是なり。諸仏は衆生の一念の心より顕はれ給へば衆生は是本なり、諸仏は是末なり。然るを経に「今此三界皆是我有・其中衆生悉是吾子」已上と云ふは、仏成道の後に化他の為の故に、
 

平成新編御書 ―1415㌻―

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