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『上野尼御前御返事』


(★1575㌻)
 此の人仏法をいみて経をかゝじと申す願を立てたり。此の人死期来たりて重病をうけ、臨終にをよんで子に遺言して云はく、汝は我が子なり。その跡絶えずして又我よりも勝れたる手跡なり。たとひいかなる悪縁ありとも法華経をかくべからずと云云。然して後五根より血の出づる事泉の涌くが如し。舌八つにさけ、身くだけて十方にわかれぬ。然れども一類の人々も三悪道を知らざれば地獄に堕つる先相ともしらず。其の子をば遺竜と申す。又漢土第一の手跡なり。親の跡を追ふて法華経を書かじと云ふ願を立てたり。其の時大王おはします、司馬氏と名づく。仏法を信じ、殊に法華経をあふぎ給ひしが、同じくは我が国の中に手跡第一の者に此の経を書かせて持経とせんとて遺竜を召す。竜の申さく、父の遺言あり、是計りは免し給へと云云。大王父の遺言と申す故に他の手跡を召して一経をうつし了んぬ。然りといへ共御心に叶い給はざりしかば、又遺竜を召して言はく、汝親の遺言と申せば朕まげて経を写させず、但八巻の題目計りを勅に随ふべしと云云。返す返す辞し申すに、王瞋りて云はく、汝が父と云ふも我が臣なり。親の不孝を恐れて題目を書かずば違勅の科ありと。勅定度々重かりしかば、不孝はさる事なれども当座の責めをのがれがたかりしかば、法華経の外題を書きて王へ上げ、宅に帰りて父のはかに向かひて血の涙を流して申す様は、天子の責め重きによって、亡き父の遺言をたがへて既に法華経の外題を書きぬ、不孝の責め免れがたしと歎きて、三日の間墓を離れず食を断ち既に命に及ぶ。
  三日と申す寅の時に已に絶死し畢って夢の如し。虚空を見れば天人一人おはします。帝釈を絵にかきたるが如し。無量の眷属天地に充満せり。爰に竜問うて云はく、何なる人ぞ。答へて云はく、汝知らずや、我は是父の烏竜なり。我れ人間にありし時外典を執し仏法をかたきとし、殊に法華経に敵をなしまいらせし故に無間に堕つ。日々に舌をぬかるゝ事数百度、或は死し或は生き、天に仰ぎ地に伏してなげけども叶ふ事なし。人間へ告げんと思へども便りなし。汝我が子として遺言なりと申せしかば、其の言炎と成って身を責め、
 

平成新編御書 ―1575㌻―

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