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『法華本門宗血脈相承事』


(★1680㌻)
 我が未来に於て予が仏法を破らんが為に、一切衆生の元品の大石、第六天の魔王、師子身中の蝗虫と成り、名を日蓮に仮りて、本迹一致と云ふ邪義を申し出して、多くの衆生を当に悪道に引きいるべし。若し道心有らん者は彼々の邪師を捨てゝ、宜しく予が正義に随ふべし。正義とは本迹勝劣の深秘、具騰本種の実理なり。日蓮一期の大事なれば、弟子等にも朝な夕なに教へ、亦一期の所造等悉く此の義なり。然りと雖も迹執を出でず、或は軽んじ見惑或は蔑み思惑或は癡塵沙惑或は迷ふ無明惑が故に日蓮が立義を用ひざるか。予が教相観心は理即名字・愚悪愚見の為なり。
    日蓮は名宇即の位、弟子檀那は理即の位なり。上行所伝結要付嘱の行儀は、教観・判乗、皆名字即五味の主の修行なり。故に教相の次第は要用に依るべし。唯大綱を存する時は余は網目を事とせず。彼は網目此は大綱、彼は網目の教相の主、此は大綱首題の主。恐らくは日蓮の行儀には天台・伝教も及ばず。何に況んや他師の行儀に於てをや。唯在世八箇年の儀式を移して、滅後末法の行儀と為す。然りと雖も仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり。彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等凡夫の為には教相たり。理即但妄の凡夫の為の観心は、余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり。是くの如き深義を知らざる僻人出来して、予が立義は教相辺外と思うべき者なり。此等は皆宿業の拙き修因感果の至極せるなるべし。彼の天台大師には三千人の弟子有りて章安一人朗然なり。伝教大師は三千人の衆徒を置く、義真已後は其れ無きが如し。今以て是くの如し。数輩の弟子有るべしと雖も、疑心無く正義を伝ふる者は希にして一二の小石の如し。秘すべきの法門なり。
  第六に住教顕観
  七に住教非観
  八に覆教顕観
 

平成新編御書 ―1680㌻―

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