親のエゴは子に強いるべきはない。ただ正邪によるべし。

折伏に歩いていて、浄土真宗の或るお宅に行き当たりました。
遠くの地方から嫁いで来て、別に仏壇があるわけじゃなし、どこか菩提寺がある訳じゃない。
けれどもその人の母親は浄土真宗の僧侶の娘で、母より「浄土真宗をやめたらいけないぞ」、と常々言われているから日蓮正宗の信心は出来ない、との事でした。
それでも念仏の教えは間違っている旨話したのですが、母親に逆らうことは出来ないと、ついに肯んずる事はありませんでした。
帰途、車中でこんな事を考えました。

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先日のNHK大河ドラマ「八重の桜」を見たでしょうか?
新政府軍に攻め込まれて会津の婦女子は、敵に生き恥をさらすまい、とて自刃していったのですが、可哀想なことにその中には幼気な幼女もいて、いざ自刃せんとて皆が白装束で集まる様をみて「今日は何をするのです?」と、おずおずと聞いて居るではありませんか。結局その幼女も誰か身内の刃にかかって死んだのでしょう。哀れすぎて正視に耐えませんでした。
親の主義主張の為に娘が強制的に死なねばならなかった、という事に憤りを覚えませんか?
子供は子供の価値判断で、物事の善し悪しを決めるられるべきなんだ、
とは思いませんか?
そして最良の価値判断は経証・文証理証現証による正邪の判別に依らねばならない。ここにおいて初めて「ならぬものはならぬ」という確固たる信念が発揮されるべきなのであって、先祖伝来だから、という慣例において「ならぬものはならぬ」が適用されては邪宗の害毒によって不幸に陥るばかりであります。

今日訪問したお宅も同様です。
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と言ってあげれば良かった。

念仏の教えは間違っている。
それというのも、南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に命を捧げますという意味ですが、阿弥陀仏はこの世に実在した仏ではない。仏はあくまでこの世におぎゃーと生まれてきたお釈迦様だけです。阿弥陀仏はこのお釈迦様の説法の中に登場する架空の仏なのです。言わば釈迦仏は阿弥陀仏の生みの親です。
何かを懸命に信ずるという行為は大変尊いことですが、
阿弥陀仏にしてみれば、親たる釈迦仏を差し置いて懸命に自分を拝まれても嬉しくないと思っていますよ。
だから南無阿弥陀仏と唱えるよりも南無妙法蓮華経と唱える事の方が阿弥陀仏も喜ばれるのです。
南無妙法蓮華経は釈迦仏が成仏するために修行した仏様の種となる教えですから、これを唱える事はこの世のありとあらゆる仏様が喜ぶことなのです。

とは説明したのですけれど、噛んで含めるように諭していかなければ親の呪縛は解けないのでしょう。また訪問しようと思います。

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