故に須く本尊を簡んで以て信行を励むべし

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夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず。妙楽大師の謂えること有り「仮使発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し、若し正境に非ざれば縦い偽妄無けれども亦種と成らず」等云云。故に須く本尊を簡んで以て信行を励むべし。(六巻抄・文底秘沈抄四三)

「そもそも本尊とは私達が縁したところの信仰の対象である。信仰の対象は智慧(智慧がなければ信心)をおこし、智慧(信心)はまた修行を起こさしめる。だから信仰の対象がもし不正な時は、それによって起こる信心も、修行も不正なものとなる。妙楽大師はこう言っています。「たとえ発心が不純な物であったとしても、信仰の対象が不正でなければ功徳をいただけるのである。逆にもし信仰の対象が不正な本尊であった場合は、拝む側がどんなに誠心誠意信心修行に励んだと言っても決して救われない」だからどれが正しい御本尊かを見定めることが大事である

と言うわけであるから、本門戒壇の大御本尊を否定した創価学会は正しい本尊観を見失ってしまった。形ばかり似ていても御本尊としての効能がそなわらないニセ本尊は勿論のこと正統門下たる日蓮正宗を誹謗する心根でいくら宗門の御本尊を拝んだとしても、「種とならず」即ち成仏は出来ないのである。

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