2月7日興師会

芹 未分類

本日は日興上人の祥月命日です。
総本山では7時から客殿にて興師会が奉修されました。
日興上人は芹を好まれたと伝わっており、御宝前へ芹をお供えします。
御本尊様へ毎日お供えするお水を汲んでくる「御華水」という井戸があるのですが、昨日、係の僧侶がその周りに栽培されている芹を摘んできました。
今年は昨年よりも不作でしたが、御供えする分は確保出来ました。
当坊は、何軒も店を当たりましたが、売ってなかったり、売り切れてたりと事前に手に入らず、御華水の芹のお裾分けに与ろうと思ってましたが、不作ではそうもゆかず、ハタと思い立ったのが写真の芹です。当坊脇を流れる潤井川に自生していたものを取ってきました。自然の恵みです。

以前、私が住職となってしばらくしたある日、
旧知の御信徒が訪ねてきて
「御住職になられたそうですね、おめでとうございます。今日は登山したのでお参りしました。でも御供養を用意してきてなかったので、せめて裏の川で摘んできました」
といって芹の御供養を頂いたことがあります。
なんと麗しく、心のこもった御供養だろうか、と感心しました。

御供養といいますのは徳勝童子の故事もあるとおり、金品の多寡ではありません。
志であります。

この話の心が伝わってくれるといいのですが、実は以前こんな事があったのです。

最近たばこは一箱五〇〇円ぐらいするようですね。
一日に三箱は吸うというヘビースモーカーの人が入信してきました。
「お金がないから御供養はしませーん」
というので、
御供養は金品の多寡じゃないんですよ、とこの話とこの話 をしたところ、

「分かりました。それじゃその辺の草を抜いて御供えすれば良いんですね!」

などといい、愕然とさせられました。
(結局その人は罰が当たって退転していきました)

信心というものは、自分の価値観を、御本尊様を根本に改めるところから始まる、のです。

自分の事だけを考えて、御供養を何か自分にとって不用な余り物を投げ与えるかの如きものと捉えていては、御供養の意義は成立しないものと思います。

三門の改修も無事終わり、いまや素屋根が取り払われてその偉容を顕し始めました。
本年末には特別御供養が予定されています。
存分の御供養をさせて頂けるよう、今から心掛けて参りましょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました