生き別れの苦

朝日門(鬼門)からの旭日 未分類
冬の7時ぐらいか、桶を回収して帰りに見かけた光景

横田滋さんが亡くなったと報じられている。
終に生き別れの娘に会えなかったのは痛恨であろうと思う。
仏教解説書にこんな例え話があって感心したことがある。
衆生にとって仏は親だ。
例えば遊園地で子が迷子になったとする。
子は親とはぐれて自分がどうなってしまうのだろうかと不安に駆られるが
予め何時にどこに集合と打ち合わせがしてあれば、子は不安にならない。
前者は信心をしていない人。後者は信心をしている人、という説明だ。
親子が離れてしまった、という現実の相は同じなのに、片方は苦しみを感じ、片方にはそれがない、という点には考えさせられる。

横田滋さんにしても、めぐみさんと会えないという状況であったとしても、
手紙の一つでもあって意思の疎通が出来ていれば、左までの苦悩は負わなかっただろう。

日宥上人の講演雑記に、
安国とは、正は本有の妙法・甚深の正法である。天下に流布するを立正という
次に安国とは娑婆世界である。本門の眼を開いては「我此土安穏 我浄土不毀441」であり、娑婆の当体は不毀の霊山である。故に(娑婆は)涅槃の寂光土である。これによって本門誹謗の前には娑婆即無間なり。これ危国に非ずや。信仰の前には寂光と達す安国なり。(意訳)(歴全3-395)

とある。
信心をしていない人にとっては危国であり、無間地獄なのである。
信心をしている人にとっては安国であり、寂光土なのである。

親(仏様)との連絡は、朝晩の勤行を根本とした「信心」である。

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