善縁がさらに善縁を呼ぶ、善の増上縁

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本種坊門前

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   御法主日顕上人猊下お言葉
     本覚寺新築落慶法要の砌
昭和五十八年九月十六日

 本日は当・東海山 本覚寺において、建立、満10周年を記念されましてここに本堂、庫裡くりを新築せられ、その落慶らっけい法要におうかがいをいたした次第でございます。お天気も良く、まことに盛大にこの法要が修せられ仏恩報謝ができえまして、皆様とともに心から有り難く存ずる次第でございます。
 寺院が立派になるということは取りも直さず末法下種の御本仏・宗祖日蓮大聖人の御威光がますます倍増することでございまして、けっしてこれは住職の住んでおるところの住居がただ立派になるということではないのでございます。やはりお寺が立派になるということによってその法威が増し、さらに信徒の数も増え、その信徒の方々がその寺院に参詣することによって御本尊の御威光をさらに感じて信行倍増していくということであります。いわゆる善縁がさらに善縁を呼ぶということが、増上縁でございます。その反対に、もしも悪を行う者があるならば、その悪を行うことはさらに悪が悪を呼び、さらにまた悪を呼び、自らの悪が次の者、次の者と回っていって、どんどんと周りの人を悪く不幸にしていくのが、やはりこれも悪の増上縁でございます。
 我々、日蓮大聖人の仏法を正しく信受する者は僧俗ともに、この大聖人の仏法をどこまでも受持信行し、そして日夜にその真の功徳を得て、その善い縁をますます周りに向かって弘めていくということが大事であります。そして、お互いが真実の幸せを得ていくということが、真の広宣流布の源となるのでございます。
 大御本尊に対し奉り南無妙法蓮華経と常に唱えるところが、本門の真髄でございます。一代の仏教は法華経に極まり、法華経の教えは本門寿量品に帰するということが教相、教判の上から言われておりますけれども、その本門の教えの真実の利益というものはどこにあるかといえば、皆様が既に御承知の如く、大聖人が
  「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」(経王殿御返事・六八五㌻)
と仰せあそばされたところの、大御本尊の御当体にあらせられるのでございます。すなわち御本尊を拝することにおいて我々が心的、物的、様々なる歓喜を生ずるところが、いわゆるこの大御本尊の大きな利益でございます。/P33

 しかしながらそれのみならず、我々の過去遠々劫以来の悪業、煩悩、罪障によって我々の身体や心には実に様々の汚ない、不幸になるところの要素が充満しております。いわゆる悪(苦しみ)の要素でありますが、この悪の要素を正しい信心修行、中心を忘れない信心修行によってその悪が打ち破られていくということ、いわゆる「破悪」と申しまして、悪を破することがやはり大きな利益でございます
 皆様方はただ喜びに喜んで、物質的な利益だけが利益と思っていらっしゃる方もあるかもしれませんが、これは大きな誤りであります。自らの心に巣食うところの煩悩、罪障、悪を破っていく姿、すなわち日常の(南無妙法蓮華経の)題目受持のなかに体験するところに(この信心の)真の利益が存するのであります。
 そして、その悪を破るところにおのずから善が生じてまいります。その善にも種々の善があります。いわゆる小さい善から大きい善まで沢山の善がありますけれども、一番根本の善は「一心欲見仏 不自惜身命」の気持ちをもち、身命を捨てて妙法を受持信行していくというところに存するのでございまして、そのそれぞれの利益にあずかるところがそのまま、それがやがて成仏につながるというのではなくして、毎日、毎日の生活のなかで悪を破し、善を生じ、さらに歓喜を得ていくところのその当体がそのまま入理の益、すなわち即身成仏の相であるのでございます。

(掲載者註:「やがて」ではなく信心の姿が既に成仏の相である、童話で言う、大きくなったら白鳥になった、のではなく、もはや既にして白鳥なのである。それに気づいているか居ないかによって苦楽が分かれる。信心をしないと気づけない)

 そこに、この本門の深い教えも、大聖人が
「五百塵点顕本の寿量に何なる事を説き給へるとか人人は思召し候、我等が如き凡夫無始已来生死の苦底に沈輪して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を・無作本覚の三身と成し実に一念三千の極理を説く」(教行証御書・1107㌻)

(御文の意味:お釈迦様はインドに生まれて悟ったのではなく、ゴヒャクジンデンゴウというものすごい昔から仏様として人々を導いてきた――、と説かれている法華経寿量品というお経には、要するに何が説かれてあるかというと、世間の浮き沈みに喘ぎ汲々として、成仏のじょの字すら思いもよらない我々凡人が、実は本来的に仏の性を持ち合わせているんだ、ということなのだ)


ということを『教行証御書』に御指南(ご説法)あそばされておるのでございますが、実に甚深の法門ではありますけれども、ただいま申しました如くに、この「一念三千の極理」とはただ我々が信の一字をもって南無妙法蓮華経を受持して、どこまでも命懸けで護るところの日日夜々の信心修行に存する次第でございます。(「一念三千の極理」とは日常の信心修行の中にあるのだ)
 その功徳がここに、このような立派な新しい建物となって生まれたのでございますから、皆様方はこのお寺をいよいよ利用せられて、ともに正法受持、興隆のために御精進をされ、一生成仏の本懐を遂げられんことをお祈りいたしまして、一言、本日のお祝いといたします。おめでとうございました。

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以上は日顕上人猊下の昭和58年のご挨拶文ですが、大変感銘を受けましたので御紹介した次第です。
一般人向けに難解と思われる部分は(カッコ書き)で註を入れましたから参考にして下さい。

「悪を破することが大きな利益」(≒罪障消滅即ち功徳)
「善縁が善縁を呼ぶ善の増上縁」対する「悪の増上縁」
「物質的利益だけが利益と思うのは大きな誤り」
とのお言葉に感服しました。
参詣したら得も言われず良かった。また参詣しよう。今度は友達も誘ってみようかな――、
そう自然に思えるような寺院にしてきたいものであります。

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