目先の利益に囚われる、の愚

大坊の書院 未分類
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ある御老僧のお説法でこんなのがありました。

さて、昔、田舎に一人の青年がおりました。この青年が考えますのには、この様な田舎にいてもしょうがない。一つ都会に出て一旗挙げようと決意し都会に出て来ました。
ところがこの青年何を間違えたのか「私は日本一の立派なスリになろう」と、江戸でも有名なスリの親分のところにワラジを脱ぎました。
「お前は田舎から出て来たが中々見どころがある、一つ私の所で修行しなさい」と親分のところで御奉公する事になりましたが、一カ月、二カ月経っても中々スリの手ほどきはしてくれません。
ある日の事、「今日は スリの手ほどき をしてやるから私について来なさい」青年は喜んでついて行きました。華やかな人通りの多いところでスリの手解きをして呉れるのであろうと思って親分について行くと、行ったところは田舎の山道です。しまいには家は一軒もありません。向うの方に一軒の茶店があるばかりです。こんな所で親分何をする気かなと思っておりますと、その茶店に腰を下した親分、スパスパ煙草を吸い始めました。
そうすると、向うの方から一人の百姓が、立派な牛を連れて茶店の方に向って来ました。それを見た親分の目がキラリと光りました。横にいる子分の青年に向って「お前あの牛をスレ」と命じました。
牛の鼻には環がついて、百姓しっかりとその縄を握っています。青年考えました。俺はえらい親分を選んだものだ「親分いくら何んでも私にはあの牛はスレません」「そうか、お前がスレなければ俺がスッて教えてやる、よく見ていなさい」
その茶店にはワラジを売っていました。六文出してそのワラジを買っているうちに、百姓は茶店を通り過ぎて行きました。
それを見た親分、今買ったワラジを腰に下げ、牛を追いかけて行きました。あんな大きな牛をどうしてスルのかなあと見ていると、牛を通り越してトットトットと行ってしまいます。
「いくら親分でもあんな大きな牛はスレる筈がない」、それだけではない、先に買った新しいワラジを片方落しました。それにも気付かず親分は行っています。どうしたことだ、天下の親分がワラジを落して気付かずに行くとは。
そのワラジを百姓拾いました。新しい。しかし、まわりを見ても片方しかありません。片方では役に立たない。それを捨ててしばらく行くと、又新しいワラジが片方落ちている。百姓考えました。今のと前のワラジを合せば一足、六文儲かる。早く行かなくては人に拾われる。御存知のように、牛は歩くのが遅い。横に一本の木がありましたので、そこに牛を繋いで急いで片方のワラジを拾いに行きました。〝やあ、六文儲かった〟と、喜んで元のところに帰って来てみると、木に繋いでいた牛がいません。
そうしていると、茶店で待っていた子分のところへ、親分ニコニコ顔で牛を連れて来て「どうだ、牛はこうしてスルんだ」と言った。

(富士学報14-1秋山慈泉師稿)

目先の利益ばかりを追いかけていくと、もっと大きな実利たる幸福境界を見失ってしまいます。
信心に費やす時間があったら働いた方が良い、等と考えるのこのクチです。「生活のついでに信心」という信仰態度では御利益を頂けないばかりか、仏様に見放された空回りの生活という罰を被ることでしょう。是非信心を人生の根本に据えて、仏様の御加護の内に自由闊達な生活を送りましょう。それには日々の勤行、中でも朝勤行が最も大事です。一層励みましょう!

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