正直捨方便 不受余経一偈 秋元広学師(秋元日高御尊能師)

布教講演 昭和56年宗祖第七百御遠忌 正直捨方便 不受余経一偈
昭和56年10月12日 於 総本山・大講堂
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   第七百御遠忌慶祝布教講演           昭和五十六年十月十五日
                          於 大講堂
     正直捨方便 不受余経一偈
                          秋元広学
/P73-上
 本日は、宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌大法要のため、地域の同信の人々の代表として、真心から御報恩のための御登山を致されましたこと、まことに冥加の至りと心より御同慶申し上げます。
 仏道修行において、報恩の一念が最も大切なことは皆様よく御承知の通りでございます。大聖人様は『開目抄』に
  「仏法を学せん人・知恩報恩なかるべしや、仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」(全集一九二頁)
と仰せられ、仏弟子として知恩報恩の道を尽くすことがいかに大事なことであるか、なかても三宝の恩が最も大切なることを仰せられておられるのであります。
 この三宝様の鴻大な御恩徳は、もちろんどの様に報じても報じ尽くせるものではございませんが、常に怠らず修行精進することが私達、弟子信徒の忘れてならないことと存ずるものでございます。それと共に私達が忘れてならないこ/P73-下とは、三宝様にかかわる節目、節目を、どう己の信心の深化とし、生活の発条としていくか、これまた仏道を修行する者にとって、知恩報恩の道であると存じます。
 時あたかも値い難い七百御遠忌の佳節に巡り合わせて御報恩申し上げることか出来ますことは、実にすばらしい果報でもあります。これは大法要に参詣出来た、出来ないということではなく、正しい筋道のもとに、本門戒壇の大御本尊様を信ずるすべての人々に言い得ることでございまして、このすべての人々が正しい脈絡のもとに七百御遠忌の意義を更に認識して、己の信仰の深化、広宣流布への大情熱を湧き立たせて実践することこそが、真に七百御遠忌を意義あらしめることになると確信をいたします。
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 そこで本日は「正直捨方便 不受余経一偈」と題しまして、少々講演させていただき、御報恩にお供えし奉ると共/P74-上に、皆様の信仰の深化の一助になればと存ずる次第でございます。
 大聖人様は『日女御前御返事』に
「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によって・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」(全集一二四四頁)
また『当体義抄』に
「正直に方便を持て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じ三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」(全集五一二頁)

と仰せでございます。このところに「正直に方便を捨て」とあります。まずこの〝方便〟ということですが、よく聞く言葉ではありますが、わりあいにこの本当の意をとらえている人は少ないのではないかと思います。
 皆様方も、朝夕に「妙法蓮華経方便品第二」と読んでいるその方便ですが、これはなかなか難かしい字で、方便の〝方〟という字は、方角の方、方向の方、それから〝サキ〟という意味もあります。また〝便〟という字は、便利の便で、たよりという意味であり、手紙を出す場合に便りをするといったようなことを言います。
 ですから、この方便という意味は一つのことがらに、その方向を示して、それに対して便り、実際の方法を行うという意味があります。これは雨が降ってくれば、体を雨か/P74-下ら守るということで傘をさす、雨が降ってきたということで実際に対処をする、これが方便ということでございます。
 ところが、これは実際には大変に難しいことでございまして、これは釈尊の時代のことでございますが、あの『方便品』に出て来る舎利弗という人が、仏教を教えるのに、数息観、不浄観というのがありますが、洗たく屋さんに数息観を教えた。この数息観というのは呼吸を整えるということですが、これを教え、かじ屋さんには不浄観を教えた。これは一切の物は汚い物であるから、きれいにしなければいけないという教えです。
 これは、本来なら逆でありまして、かじ屋さんには数息観を教え、洗たく屋さんには不浄観を教えなければいけないわけですが、逆だったものですから、ついに仏教がわからず退転してしまったという話がございます。
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数息観(すそくかん)呼吸を調える トンテンカンと鍛冶を打つ鍛冶屋向きの教え 
不浄観(ふじょうかん)汚れを嫌う 衣類をキレイにする洗濯屋向きの教え
   ※これをしゃりほつはあべこべに教えてしまった。
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 これは道と申しますか、便りと申しますか、それを環境、職業、年齢等にあわせて便りがある、その方向で道を示すということで、これが基本的な方便ということでございます。ですから、こういう意味から考えますと、民衆の機根が沢山あるのに対応して、仏が法を説く姿があります。
 『無量義経』という経文に
  「諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以ってす。四十余年には未だ真実を顕さず」(開結八八頁)/P75-上

とございます。これは多くの民衆がそこにいる。すると、一人ひとりの考え方、性質、欲望の程度、年齢、全部異なっている。その人々に、その時々に合わせて権の教えを説かれている。仏の教えではありますが、その一分、一分で全体そのものではありません。これを爾前権教といいますが、それが法華経以前の四十余年にわたって説かれた教え、それには未だ真実を顕わしていないということを釈尊自らが述べられた経文であります。

 ここでちょっと考えてみると、一つおかしなことがあります。それは私達は法華経は真実教であると教わってまいりましたが、私達が朝夕読誦する『方便品』があります。これは、この『方便品』が権(かり)の教え、方便の教えということでは決してありません。
 この『方便品』が何故、説かれたかというと、四十余年にわたって方便権教が説かれてきた、その鍵が示されている故に『方便品』というのであります。これが諸法実相ということであります。
 爾前権教に於いては、地獄、餓鬼、畜生から二乗、菩薩を対象として、それらの教えを説いてきたのであります。そして法華経にきて、仏の深い境界を開いて妙法という真実の法を説き、これを信ずることによって、今日までの爾前権教に於ける様々なことがすべて仏の道につながってくるし、入ってくるし、また生きて行くんだということが法華経の諸法実相という意味であります。/P75-下
 爾前権教では、永遠に仏になることは出釆ませんし、永遠に命の自我を解決し、自らの命を正しく開くことが出来ません。ところが、この法華経に入って、仏自らの悟り、これを妙法といいますが、この妙法を信順して、舎利弗はもちろん、天人は天人の姿で、二乗は二乗の姿で仏になることを得たわけで、こういう意味の方便、これは仏の深い秘密の姿においての方便であります。
 方向を指し示したという方便とは違って、仏様の深い秘密の姿、妙法蓮華経の妙という姿、妙とは不可思議、不可思議とは仏様の深い気持ち、御意ということで、そこへ向かって民衆を導きよせるための方便、これが法華経の『方便品』で、仏教語で秘妙ということを申し、秘妙方便というのであります。要するに、これは仏様と民衆との間の気持ちが一つになっているということであります。
 ですから大聖人様が、正直に方便を捨ててということは、法華経以前に説かれた教えは、それだけに執われては絶対にいけない、捨てなければいけないという意味であります。
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 ところが、折角仏様が言われたにもかかわらず、仏の教えを無視して、反抗をして、自分はこの教えがいいんだといって、法然、親鸞は、無量寿経、観経、双観経によって南無阿弥陀仏の宗旨を開き、あるいは弘法は、金剛頂経、蘇悉地経によって南無遍照金剛というような真言密教の教/P76-上を開いている。
 これは仏様が爾前権教だといって捨ててしまった、打ち破ったところの教えであります。自分達の勝手な気持ちで仏が捨てた教えによって宗旨を建てておりますが、そこに仏教の節目の上からの誤りがあるのであります。
 ですから大聖人様は
  「如来の聖教は漢土にわたれども人を利益することなし」(報恩抄・全集二九九頁)
と仰せであります。仏のあの尊い教えが、インドから中国、日本へと渡ってまいりましたが、にもかかわらず、かえって民衆が悪道に堕ちている姿があります。これは何かというと、人師の誤りによるのである「仏教というものは、やはり正継の人と、そうでない人」があり、正継でなければ仏教は正しく伝わりません。
 竜樹、天観、南岳、天台、伝教という方々が、釈尊の仏法を正しく、その時々に於いて、仏様から与えられた分限、分際において、少しも違えないで弘め示しているのであります。
 ところが勝手にその中に割り込んで来て、今どきの民衆はこうだから、この法の方がよいのではないかと、勝手に自分の考えで法を弘める。これが念仏等の教えであります。
 この様な教えに惑わされずに、正直に捨てる、これが大事であります。正直に方便を拾てて但法華経を信ずると仰せられております。/P76-下
 ここで法華経を信ずると仰せでございますが、大聖人様は、この法華経について、そのつど、これはこの様な法華経、あれはああだと仰せられてはおりません。しかし当然、御書も節目がございます。この筋目から拝してみますと、この法華経も、世間では釈尊が説かれた法華経だけだと思っておりますが、これだけではないのであります。これは法華経というものをよくみますと、どうしても一つの問題にぶつかります。
 それは一概には言えませんが、釈尊は法華経を前半と後半とに分けて、それぞれを譲り与えておられます。これを仏法では付嘱と申しますが、この点から考えてみますと、この付嘱を承けた人が仏法を説くということが大事な問題になっておるのでございます。その様な点から大聖人様は、正しく法華経の付嘱を承けて、この末法に御出現されたのであります。この点から考えてみますと、この法華経の付嘱を承けて法華経を説かれる、この説かれる法華経は大聖人にその権限があるといえるのであります。
 これを考えずに法華経は釈尊が説いたのであるから、どこまでも釈尊でなければならないと考えるのが世間の人々ですが、しかし、釈尊が時であるとか、機、国、教法流布の前後を考えられて、未来の人々のために、それぞれ付嘱をされているのであります。
 ――――◇――――◇――――◇――――◇――――/P77-上
 そこで大聖人様は、御自分の譲られた法華経につきまして『神力品』の要の法華経と仰せあそばされてございます。この『神力品』に於いて、四句の要法が示されてございますが、この四句の要法とは、末法の妙法蓮華経の五字七字であるということをお示しになりました。
 この妙法蓮華経が釈尊の仏法との関係に於いて、どの様に違っているかという問題ですが、これが全く同じというなら、四句の要法に結して付嘱をする必要はないのであります。釈尊の法華経をそのままに末法に弘通して、末法の人々が救われるならば、釈尊が上行菩薩を召し出して、『神力品」で四句の要法に結して付嘱する必要が全くないのであります。
 これをあえてなさったということは、四句の要法の内容が釈尊の一部八巻の法華経と、どこが違っているのかということを、はっきりとけじめをつけ、教えていくところに末法の大聖人様の教えというものがあるのであります。
 ただ釈尊の説かれた法華経を弘めるためにと、身延の人達、あるいは正宗以外の日蓮門下といわれる人、その他世間の人々も考えておりますが、これは、大聖人の仏法の筋道から狂ったところの大いなる誤りであります。
 そこで大聖人様は、これについて『三大秘法抄』に

「釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略間近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初、修行し給いし処の寿量品/P77-下の本尊と戒壇と題目の五字なり」(全集一〇二一頁)

と、実に重大な意味を込めて仰せられております。
 即ち「実相証得の当初」ということでありますが、釈尊が久遠に於いて悟りを開いた、それを更にさかのぼる〝当初〟、一番の初めということで、妙法華華経の本元、本体はそこにあると、大聖人様は仰せであります。
 これこそが本因妙の位に於ける南無妙法蓮華経であり、釈尊の法華経は本果の上から説かれたものであります。ここに大きな違いがあるのであります。
 釈尊の仏法は久遠に下種を受け、種々の経過をたどり在世に巡り来たって法華経を信受して得脱をするところにその本領があり、大聖人様の仏法は、久遠の〝当初〟、一番の本元、本体を衆生に下種するところに本領があるのであります。
 この下種ということは、非常に大事であると大聖人様は仰せでありますが、この種というものがなければ、説かれている教えが、どんなに立派そうにみえても、絶対に成仏は有り得ないのであります。

「種・熟・脱を説かざれば灰断に同じ」(全集一〇二七頁)

と仰せられておりますが、種がないものは、どんなにしても幸福な境界、仏の命を開き顕わすことは有り得ないのであり、種がないのは灰断に同じで、何も無い空漠たるものであります。ですから、この種ということはまことに大事/P78-上でありまして、この種の根本は大聖人が御所持の法華経にあるのであります。
 そこで先程の『方便品』の後に『化城喩品』がありますが、ここに仏様の化導の始めと終わりということが説かれております。これは大変に大事なことであります。
 始めと終わり、因と果、因果の法則を無視して成仏があるなどといってもはじまらない。東も西も、北も南も、上も下も全く分からない状態、こんなものにだまされ、少しばかりよく見えるところにたぼらかされているのが、世間の人々である」これらの誤りがあることを、はっきりと示されたのが大聖人様の法華経であります。
 ですから大聖人様が「法華経を信じ」と言われている法華経は、種熟脱の中では、下種の法華経、一部八巻二十八品の広の法華経に対して、『方便品』『寿量品』が略の法華経、それに対して南無妙法蓮華経は要の法華経。この南無妙法蓮華経こそが大聖人の言われる法華経でありまして、大聖人様が〝要の法華経〟と言われたのは、このことでございます。ここに不受余経一偈の意があるのでございます。
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 そこでこの南無妙法蓮華経でありますが、世間では南無妙法蓮華経でありさえすればいいんだ、みんな同じなんだということで、戦前、戦後の新興宗教などは南無妙法蓮華経と唱えているのが非常に多いのであります。しかし、/P78-下 南無妙法蓮華経の実体は、あくまでも大聖人様が説かれたものであり、それを大聖人様は御本尊と顕わされたのであります。これこそが大聖人様の法華経の真髄であり、そのものでございます。
 天台大師という方は、もちろん法華経を説かれ、弘められた意味がございます。しかし天台大師は、あくまで釈尊一代の仏法を解釈し、法華経を解釈し、その上から華厳、阿含、方等、般若と法華経の関係を明かし、整理、総合して説かれている、あくまでも釈尊の仏法の範疇にあってそれを説き弘めるという付嘱の範囲で、妙法蓮華経と言われているのであります。
 ですから大聖人様は、天台伝教未弘の法、天台伝教が弘めたところの釈尊の法華経の文上にあるのではなく『寿量品』の文底にあるところの法をお説きになっているのでございます。これが大聖人様の法華経でございまして、さきほどの『三大秘法抄』にお示しの、本門の本尊と戒壇と題目のこの三大秘法こそ末法の法華経という意味があるのでございます。御本尊様の南無妙法蓮華経こそが法華経という意味でございます。
 ですから私どもは「正直捨方便、不受余経一偈」、あらゆる一切の仏・本尊を捨て、宗祖日蓮大聖人様が魂魄を留めおかれました南無妙法蓮華経の御本尊様に向かって、唯一無二と信じて唱題に励むことが「正直捨方便、不受余経一偈」の真実の意義であります。/P79-上
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 以上、述べてまいりましたが、今私達は、現実にこうして七百御遠忌の佳節にめぐりあうことが出来たのでございます。御本尊様にめぐりあうことが出来、しかもこの七百御遠忌に登山参詣させていただき、御報恩申し上げることが出来得た、これは信心する者にとって、何ものにも代え難い歓喜であり、法悦であります。
 大聖人様の仰せに

「随喜するは信心なり信心するは随喜なり一念三千の法門は信心随喜の函に納りたり」(御講聞書・全集八三五頁)

とございます。
 批判のための批判に終始したり、愚癡ばかりでは決して本因妙の信心をしていることにはなりません。法水瀉瓶の御法主上人の御指南を拝して、歓喜に燃えて信心を致し、広宣流布に向かって、異体同心して進むことを御宝前にお誓い申し上げ、本日より実践してまいることこそ、七百御遠忌の真の御報恩であることを申し上げ、講演とさせていただきます。
          (あきもとこうがく・法照寺住職)

「如来の聖教は漢土にわたれども人を利益することなし」(報恩抄)という御文は新鮮な感じがした。
なにかにつけ、論文等で引用される御書はパターン化していて、どこかで聞いたことがあるものが多いのだが、これは記憶になかった。エイプリルフールに寄せて、秘妙方便に言及せんとしたが、ここにUPした動機はこの一文だったかもしれない。それにしても、この時恐らく師は40歳くらいである。昔の方は、勉強家だったと思う。自身の不足を痛感する。

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