承久の乱の大旨(真言亡国)

報恩抄文段 下 499B
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   承久の乱の大旨
 後日、承久記を見るべし。東鑑並びに御書の意に准ず。
今をさかのぼる元暦(1184~1185年)のころ、源頼朝が平家を滅ぼした事に、御白河上皇は、頼朝を総追捕使に任命して日本全国武力支配を許可する。以後、各地に守護や地頭を置いて権力を行使した。鎌倉幕府は頼朝のあと長男頼家、次男実朝と将軍職に就いたが、それで源家は尽きてしまった。
 その後、北条政子の弟の義時が権力を握る様になり、これを脅威に感じた当時の朝廷の後鳥羽上皇は、北条義時をへこませてやろうと、ある時、舞女・亀菊の御託宣に依り、鎌倉方が支配していた摂津国長江・倉橋という地の地頭をクビにせよと迫ったが、鎌倉方はそれを拒否した。
これに激怒した後鳥羽上皇は有名なお寺の貴僧・高僧らに命じて、ひそかに鎌倉方が滅ぶよう呪いの祈祷をさせた。
 そして朝廷側は承久三年、五月十五日に鎌倉側で京都の警備についていた伊賀太郎光季(みつすえ)を打ち取る。これが承久の乱の始まりである。
 この事件は飛脚によって十九日に鎌倉伝わった。即座に軍議が開かれ、「関所を足柄・箱根に設置して朝廷軍の進軍を防ぐべき」という意見があるなか、大江公元が、「敵軍が来るのを待っていたら反って勢いづき、敗北の因となる。ここは運を天に任せ、すぐさま軍兵を京都に差し向けるべきだ」と発言して先手必勝を期す事になった。
この決定は直ちに鎌倉方の武家に伝達され、同時に義時の長男の泰時が二十一日の夜に出発したがその数は僅かに十八騎だった。それが檄文を受けて東国の軍勢がどんどん馳せ加わり二十五日にはその勢力が十九万騎にもなった。司令官の北条泰時はこの勢力をを三手に分け、一番目の十万余騎は東海道から攻め上り、二番目の五万騎は東山道より責め上り。三番目の四万余騎は北陸道から京都へ責め上った。鎌倉軍は六月十四日に京都の宇治・勢多を責め破り、天皇の御所打ち入って後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門天皇の三人を生け捕り、それぞれ隠岐国、佐渡国、阿波国に流罪にした。そして終には三人とも彼の地で一生を終えている。

 さてこれはどうして天皇側が負けたのだろうか。天皇は国の主であり、北条義時はいうなれば民であって、これを懲らしめる事など、鷹が雉を襲い、猫が鼠を食らうように造作のないことであるはずなのに、これではあべこべに猫が鼠に食われ、鷹が雉に殺されるようなものである。
例え後鳥羽上皇側が負けたとしても、一年でも二年でも、十年でも二十年でも凌いだのならまだ分かるが、五月十五日に戦が始まって六月十四日には鎌倉方に敗北している。この間、僅か三十余日である。こんな簡単に打ちのめされたということは普通じゃない。
これはひとえに真言の悪法をもって鎌倉方を呪い殺そうとした報いとして「還著於本人」(返って本人に罰が当たる普門品569)と法華経に書いてある通りになったのだ。

この呪いの祈祷をしたのは、比叡山延暦寺の座主慈円僧正(天台真言宗)、真言の長者、仁和寺の御室(真言宗)、園城寺の長吏(天台真言宗)(いずれも法華経より大日経が勝れると主張する謗法の寺)の各第一人者をはじめ、総じて七大寺・十五大寺の貴僧・高僧等四十一人である。彼等は品行方正で、呪いの秘法は「十五壇の秘法」という。この呪いの祈祷は国敵・王敵となる者をやっつけて、命を取り、その魂を密厳浄土へ送ると云う法である。
この四十一人の高僧の他にもお付きの僧が三百余人あって、四月十九日より六月十四日まで汗を流し懸命に呪いの祈祷をし続けた。
最後には、仁和寺の御室(後鳥羽天皇第2皇子・道助法親王)が紫宸殿(朝廷の中枢)にして日本国初の大秘法を六月八日に始めたら、その同じ十四日に鎌倉の軍勢が宇治・勢多を突破し、御所に打ち入って、三人の帝を生け捕り、建物も焼き払われた。前述の如く三人の帝は島流し、公卿七人は直ちに斬首された。
勢多伽丸(十四歳。親は佐々木広綱で鎌倉方を裏切り朝廷側につき処刑されてる。遺児は道助法親王(後鳥羽上皇の次男)に貰われ可愛がられてた。)も結局処刑された。
呪いの祈祷をやってた仁和寺の御室は養子の処刑にショックを受けて死んだ。
せっかくこの戦で生き残れたというのに、勢多伽丸の母も自殺した。

結局、この真言宗の祈祷によって、幾万という人間が死んだ。殊に御室が大秘法を始めたのは六月八日から十四日で、七日間である。一日でも二日でも戦線が守れたならまだしも、始めた途端に攻め込まれ帝が捕らえられたというのは、これは真言の悪法を用いて戦勝祈願をしたからに他ならない。故に日蓮大聖人は「調伏の験し還著於本人の故とこそ見へて候へ」と仰っているのである。

仁和寺歴代譜 | 世界遺産 真言宗御室派総本山 仁和寺
真言宗御室派総本山 仁和寺の歴代譜をご覧いただけます。仁和寺では皇室出身者が仁和寺の門跡(住職)を務め、平安~鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。"

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