秋山御能化の指導

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早暁の富士と三門

大日蓮のデータを観ていたら秋山御能化の指導が目についた。
この方は本当にすごいと思う。

僧侶向けの内容だが、大日蓮に掲載されたものでもあるし、ここに再掲してみよう。
http://honshubou.main.jp/gazo/gazou.php?bunken=dnr&shuu_nen=H04&kan_getu=04&page=0084

大日蓮№554(H04.04)
法華講指導教師の在り方 平成4年法華講支部指導教師指導会の砌
平成04年01月28日
於 総本山・大書院

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法華講指導教師の在り方
布教師会会長 秋山日浄
先程、御法主上人猊下より、我々僧侶として、また法華講の直接の指導教師としての心構え・在り方について、徴(び)に入り、細(さい)にわたってお話がございました。
それをお聞きしておりまして、現在まで私自身が進んでまいりました道には間違いがなかったと喜んだのはいいのですが、私が今日お話ししようとメモしてきたことを、全部、猊下がお話しなさいまして、何を皆さんにお話ししよ
うか、困ったなと思っておるのですが、私は私なりに少しお話し申し上げたいと思います。
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昭和五十二年度路線、それから昭和五十四、五年にかけて「新生宗門」ということを宗門で唱えておりました。
しかし、今から思いますと、この当時、私はどうも「新生宗門」ということが、心から唱えられなかったし、また私自身もあまり口にしなかったと思うのです。
それは何故かと申しますと、一往、「新生宗門」と言って、学会とは表面上、仲良くなったとしても、我々僧侶としての権限といいますか、指導というものは、相変わらず、してはいけないのだと、こういうような、目に見えない学会からの圧力のようなものを強く感じていたからです。
これで何が「新生」なんだろうと、私なりに悩んだものでした。
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しかし、去年から本当の意味での「新生宗門」の出発として、信心をはじめ、すべてにわたる指導というものが私達僧侶に再び与えられたのです。ですから、昨年から私は、すべての会合において、敢えて「新生宗門」ということを唱えてきたわけです。
昨年以前までは、私は友達からよく言われました。「おい秋山、牙を抜かれるよ」と。
実際、去年までは、私達僧侶は、牙を抜かれ、爪を折られた獅子(しし)でした。これでは何もできません。
しかし有り難いことに、御法主上人猊下の一大決断、令法久住(りょうばうくじゅう)の御精神で、池田個人崇拝の邪教団体と化した創価学会が破門されたことによって、僧侶にすべての指導権が復活したのです。そして、今後の広宣流布大願成就のためには、本当に僧侶が真剣になって、信徒と取り組まなければならないということになりました。
しかし、ここで私達自身が用心しなければいけないことは、今、どんどんと学会の邪義に目覚めて法華講に入ってくる人々がいますが、この人達の期待を、我々僧侶が裏切らないということです。
今まで学会は、自分達のいやしさを覆(おお)い隠すために、捏造(ねつぞう)をもって僧侶を盛んに非難しておりました。
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しかしこれは、ほんの一部の職業幹部だけです。それに乗せられて、闇雲(やみくも)に非難しておりますけれども、学会の大部分の信徒というものは、本来は僧侶に憧(あこが)れと尊敬の念を持っているのです。これは皆様方が、直接、各末寺で接しておって、お判りだろうと思います。
この純粋な人達が、真の信心に目覚めて、お寺の門をたたき、お寺の直接の指導を受ける、直属信徒あるいは法華講員になってくる。この人達を、もし僧侶が裏切ったならば、どのようなことになるかということを、我々は今一度、深く考えてみなければならないと思います。
それだけ僧侶は、真剣になって、すべてに取り組まなければいけないのではないかと思うわけです。今こそ我々は、日蓮正宗僧侶として恥ずかしくないような、毅然(きぜん)とした態度をもって、御法主日顕上人猊下の御指南を堂々と実践していくことができる時なのですから。
さて、具体的な問題としては、まず、最近、新しい信徒がお寺に多く来られるようになりましたが、これらの方々をどのように指導していくかが重要であると思います。
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「儀式の執行はよいが、学会員に信心指導はしないでもらいたい」と、今までずっとそうでした。多くの僧侶は、このような学会からの圧力に対して、色々と文句を言っておりましたが、実際には、学会におんぶされ、だっこされ、頭を撫(な)でられて来たわけです。
ですから、その弊害(へいがい)として、お経と御授戒はできるけれども、また、お葬式は立派に修することができるけれども、「信徒をどうやって指導するのが一番良いのか判らない」という人が、特に、昔を知らない若い僧侶の方々のなかにはいたようです。
まあ、ここにおいでの方達は皆さん、立派な方ばかりですからそういう心配はないだろうと思いますが、一往、私の考えを申し上げるならば、指導というものは、そう難しいものではないと思います。
今回の問題で一番大切なことは、先程の御法主上人猊下の御指南にもございましたが、まず私達は僧侶としての基本に忠実でなければならないということです。
前に、御先師日達上人が、よく仰せられておりましたことは、僧侶として信徒に指導するための一番大切な修行は、まさに信心の基本としての勤行である、ということでした。
私はびっくりしました。勤行をしない僧侶がいるんだろうか、と。
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実際には、勤行をしない僧侶はいないと思いますが、つまり日達上人は、僧侶は常に基本に忠実でなければならないということをおっしゃっていたのだと思うのです。
ある野球の選手が言っておったのですが、なかなかいい言葉だと思いましたのでメモしてきました。それは、
「すべては基本を大事にしなければならない。基本を一日怠ると自分自身に判る。二日怠るとパートナーに判る。三日怠ると観衆に判る」
というものです。
まず何よりも、私達の信心の基本・根本は何かというと、本門戒壇の大御本尊様と、唯授一人の血脈相承をお受けあそばされている御法主上人猊下に、「一心欲見仏 不自惜身命」、いつでも命を投げ出せる信心、これを持たなければ僧侶として、信徒の指導などできません。
これができれば、失礼な言い方かも知れませんが、どんなに能力のない方でも指導はできます、信徒に対して。絶対にできます。何よりも、この確信を持つことが大切なのです。そして自分は僧侶なんだと、信徒を導かなければならないんだと、その使命に傾ける情熱です。
指導という字の「指」とは、「指差す」の「指」です。
それでは、いったい何を指差すのでしょうか。それは、「本宗の信心は、幸福になるための信心なんだ。どのようにして幸福になるのかというと、この御本尊様が、戒壇の大御本尊様が、そしてその魂をお持ちの御法主上人猊下の御教えに従っていくことによって幸福になるのですよ」と、「目標は大御本尊なんだ、お山なんだ、猊下なんだ」と指差すことなのです。
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これは信心があればだれにでもできることだと思います。
次に「指導」の「導」について申しますと、指導とは、先程申しました、「指差す」だけではだめなのです。「導く」という言葉の意味は、自分も同じように歩むということなのです。信徒と共に、我々僧侶も歩むということが大切なのです。
先程、猊下も仰せになられましたが、「情熱」をもって共に歩むことが大切なのです。
次に、これも先程、猊下がおっしゃったことですが、信徒は召し使いではないということです。大聖人様の御遺命(ゆいめい)たる広宣流布を達成するため、人類の幸福を築くため、僧侶のたのもしい協力者であって、けっして召し使いではないのです。お寺の従業員ではないのです。
信徒は、大聖人様、御法主日顕上人様からお預かりした、大切な弟子であると同時に、自分の師匠でもあるのです。
私は僧侶として、一人前の教師に任ぜられてから五十年になります。大学を出て、すぐにお寺に入れていただきましたが、その当時は非常に若かった。
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夜の二時ごろまで折伏に歩きまして、「変なやつだなあ」なんて近所の人々によく言われたものですが、とにかく夜になると折伏に歩きました。
そのとき、折伏している相手に向かって、私は、必ずと言っていいほど、「世間のことについては、私は全くの素人(しろうと)です。大学を出ているとはいっても、世間のことは全然判りません。あなた方が先生なのです。しかし、仏法については、指一本触れさせません」ということを申しました。
これは、今でもそうなのです。この年になっても、御信徒に向かって、「世間のことは、あなた方が先生ではないか」と言っております。世間法においては、信徒は先生なのです。
一方、私達僧侶は、信心の上での師匠なのです。
それでは世間法と信心とどちらが上かと申しますと、言うまでもなく、
「法華を識(し)る者は世法を得可きか」(全集二五四㌻)
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(同一一九二㌻)
等の御文は枚挙にいとまがなく、明らかであります。
信心さえしっかりしていれば、戒壇の大御本尊様、大聖人様、猊下様が私達の背後に控えていらっしゃるのですから、何も心配はありません。ですから、何も恐れることなく、どんな指導でもできるではないですか。
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猊下の御指南にもございましたとおり、一念三千の法門の大もとは、御本尊様に対する揺るぎない絶対の信心によるのですから。我々一般僧侶が信徒を幸福にしてやる、信徒の悩みを私達が解決してやるなどと、こういうふうに考えるから、かえって指導ができなくなるのです。
例えば、お金で苦しんでおる人がいるとします。
「御住職、どうしたらいいのでしょうか」と指導を求めにきます。そういうとき、私達はつい、「困ったなあ。そのお金をどこかで工面しなければなあ」と、このように目先に執われてしまうからだめなのです。
日寛上人も、『観心本尊抄文段』で、
「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶(かな)わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来(きた)らざるなく、理として顕れざるなきなり」(文段集四四三㌻)
とお示しになられている、最高にして無比の御本尊様なのですから、御本尊様への確固たる信心を教えるだけでいいのです。
病気だって同じことです。「一生懸命、信心しなさい。お題目を今までの倍、あげなさい。私も一緒に唱えるから」という励ましの言葉を掛ければいいのです。また、それが私達の役割なのです。
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そして「指差す」だけではなく、自分も共に歩むということが大切なのです。口先だけの僧侶なんて、本当に楽でいいではないですか。しかし、口先だけでは、だれも付いてきません。
どこかの団体に、「私は謙虚な人間です」等と言っている人がおりますが、こういう人に限って謙虚な人はおりません。それと同じように、「私は指導教師なんだぞ」と言う僧侶には、信徒はだれも付いてはきません。
忘れもしない、昨年の夏休みに入った七月二十五日、夜の九時ごろでしたか、学会の婦人部長さんが女の人を連れてお寺へ来ました。
その日の夕方、その女性の子供が学校から帰ってきたところ、ぐったりとしていたそうなんです。
ちょうど土曜日だったので、どこの病院もお医者さんが留守で、どうしようもなくお寺へ連れてきて、「先生、御祈念してください」と言うのです。
夜遅かったのですが、子供のことでもあったので、御祈念をしました。御経が終わって退座しようとした時、何となく気にかかったので、その女性に、「あなたの御主人は信心をしていますか」と聞いたのです。
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すると、「主人は信心しておりません」との返事だったので、私は「それではだめですよ。いくら私が御本尊様に御祈念しても、あなたがお題目を唱えても、御主人自身が信心しなければ。この子供は二人の子供でしょう」と言いました。
「いくら言っても信心しないんです」とその女性が答えるので、「しないんじゃないんですよ。この子供はあなたが信心しなければ死んでしまうんだと、そうお寺で言われたから、この子供のために信心してくださいと頼んでごらんなさい」と私は言って、その晩は帰しました。
次の日、その婦人は、子供の命欲しさに、何とか御主人を連れてお寺へまいりました。そして御授戒をいたしましたが、終了後、私は御主人に、「夫婦二人の子供なんだから、子供の命を救うために、一生懸命信心しなさい」と申しました。
私もそれから一週間、その子供のためにお題目を唱えました。
一週間後、ちょうど私が法事から帰ってきた時、本堂からものすごく大きな声でお題目をあげている声が聞こえたので、ちょっと本堂をのぞきに行ったところ、なんとその夫婦が、真ん中に子供をはさんで唱題しているところだったのです。
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本堂へ行って、その家族と共々に喜びを分かち合った時は、自分のことのように思えて、本当にうれしかったですね。
そのことがあってから、その家族の近所の学会員達は、それまでさんざん宗門の悪口を言っていたことがまるで嘘のように、急におとなしくなり、逆にお寺を褒(ほ)めてくれるようになったぐらいです。
たとえ、現在では池田大作氏の魔力に支配されてしまっている「創価学会」といいましても、もとはといえば純粋な信徒の集まりだったのですから、我々正宗僧侶が誠心誠意、あくまでも正しいことを訴えていけば、いつか判ってくれる時が、必ず来るものです。
以上のように、指導の根本というものは、自分で「どのようにしようか」等と考える必要はないのです。御本尊に対する絶対の信があれば、それで充分なのです。そして、その強固な信心をもって、人々に対し、御本尊に祈るように勧め、さらに自分もその人のために一緒になって祈るということ、これこそが指導なのです。
私達は、僧侶であるとはいっても、所詮、末法の凡夫ですから、御信徒からも色々と教えられることが多いものです。
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「偉く見られよう」などと考えることなく、「信徒は先生なんだ」ということを肝に銘じなければなりません。
日寛上人は、『観心本尊抄文段』に「四力(仏力・法力・信力・行力)具足の信心」ということを仰せになられております。
先程、私が子供の例を挙げましたのも、四力具足です。私自身の信心が相手の信心を引き出す、その相手の信心が御本尊様の功徳を引き出して、頂くわけです。
そして、大聖人様の御書の各所に示しておられるように、御本尊様の仏力・法力と我々凡夫の信力・行力が相寄って、すべてを成就することができるわけです。
「私が助ける、私が解決してあげる」等ということは、本当に大変なことであって、到底、そんなことはできるはずもありません。そうではなく、御本尊様のお力と、信徒それぞれの信心が解決することなのです。
その御本尊様に、信徒と共に心を合わせて我々が祈ればいいわけです。
さて、逆に、我々僧侶が信徒に教えられるということについて申し上げるならば、私もそうでしたが、若いころは、よく学会の人達と討論しました。
そのとき私は、「罰だ、功徳だなどと宣伝するのは、正宗の信心ではない。大聖人様の仏法は、もっと高邁(こうまい)なものなのだ」等と偉そうなことを言っておりました。
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しかし実際、お寺の住職になってみると、そんなのんきなことを言ってはおられなくなるのです。のんきという言い方は的確ではないかも知れませんが、要するに理論ばかり論じていたって、信徒は付いてこないということです。
やはり、現証、功徳、罰を説いていかなければ人は引き付けられないんですね。
「大聖人様の仏法は、こんなに正しいんだ。だからとにかくやってごらんなさい」と指導する。その信徒が一生懸命、信心に励む。実際に大きな功徳を頂く。それを目の当たりにしたならば、僧侶にとってそれは本当に大きな確信になるのです。それが積もり積もって、多くの信徒を指導できるようになるのです。
この「指導」の在り方について言えば、もちろん僧侶としての心構えを申し上げてまいったわけでございますが、また、これらは法華講幹部、さらには、これから多くの学会からの退会者を受け入れていくという意味においては、現在の法華講員に対しても言えることだと思います。
どうか指導教師の皆様には、これらのことを講員にも伝え、共々に考えていただきたいと念願いたします。
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次に、組織布教について少しお話をさせていただきます。
今、池田創価学会の邪義に目覚めて、多くの信徒が寺院の信徒へと入ってきております。
色々な人々がいると思います。本当に学会の邪義を捨てるためにお寺に来る人。また、なかには、「組織・選挙・広布基金」がいやだという理由で入ってくる方もいるでしょう。色々あります。
だから、実際、多くの信徒を受け入れておられる末寺の住職さん達は大変だと思います。
信心のしっかりとした人が入ってくるのならいいけれども、全然信心をやらないという人、また、唱題会・座談会等は嫌いだけれども、御本尊様は何となく有り難いからお寺で信心をしたいという人等は、一から指導をしなおさなければならないのですから。
しかし、それはそれでいいんです。新しい気持ちになったのですから、そこをすかさず、「法華講の信心は、今までの学会とは違うんだ」「すべて僧侶が指導し、僧侶と共に修行していくんだ」と教えるのです。また御信徒の方も、それを期待して来るのですから。
「ああ、そうですか、入ってください」と、それではだめです。
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私の赴任させていただいておる法霑寺にも、三百余世帯の方が入講されておりますが、その方すべてに私が直接、お会いしました。
長い方は三時間、短い人でも二十分ぐらいは直接、話をしました。そのとき、必ず私は申し上げるのですが、それは、「法華講は避難所ではありませんよ」ということです。というよりも、むしろ、「今まであなた方がいた学会よりも厳しい信心ですよ」と言います。
「とにかく何があっても、お寺には月二回、一日と十三日、また毎月の座談会には必ず来なければならないのですよ。これができないようでは、法華護としての資格はありませんよ」と最初にしっかりと言っておくんです。それでもいいという人は、お寺で受け入れております。
『三三蔵祈雨事(全集一四六八㌻)』の一番最初の部分には、信心組織の大切さが説かれております。
「弱い木を植えても、支えが立派なものであったならば倒れることはない。しかし立派な大きな木であっても、支えがなければ自然と倒れてしまう」とお示しになっておりますね。
私は、組織のなかで信心をするのがいやだという人には、いつもこの御文を引用させていただいております。
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「あなたは、幸福になるために信心をしているのでしょう。しかし、そのためには、あなたがいやがっている組織も、善知識としては本当に大切なのです」ということを教え、まず第一に、法華講の組織信心でなければならないということを説明します。
それから、法霑寺支部は、横の連絡を多く取らせるようにしております。
たしかにこのことに関しては、多少、問題を指摘する僧侶もおりますが、やはり、日蓮正宗の信心はこうなんだという連絡――もちろんこれは、法華講員同士の連絡です。謗法団体となった学会と法華講組織について連絡を取ってはだめです。
法華講の連合会本部、地方部との連絡のことです。
私は、これら信徒間で連絡を取ることは、かえって住職同士が、他の支部の指導の在り方や組織運営の方法等を通して、お互いが学び合い、反省し合っていくために大切だと思うのです。自分のお寺の法華護組織だけが素晴らしいとは限らないのですから。
それから、私は布教師会の会長をさせていただいております関係上、北は北海道から、南は沖繩まで、色々な方から手紙をよく頂きます。
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そのなかには喜びの気持ちを伝えてくる手紙もあれば、支部組織についての悩みを打ち明ける手紙もあります。住所や名前が書いてありますが、私の知らない人から来るものが大半ですので、どうしようもない場合があるのも確かです。
悩みの手紙も、ほとんどが他の寺院の信徒のことですから、よほどのことがない限り、薄情なようですけれども、私自身が相談に乗ったり、宗務院に報告して善処するようなことはせず、私の胸の内にしまうようにしておりました。しかし、他の支部の講員さんの悩みを読ませていただいて、逆に私自身が反省させられることも、たいへん多くございます。
これらの手紙のなかには、最近、宗務院も御法主上人も、今回の問題を契機として、寺族も共に励んでいきなさいというような指導が多くなりましたが、これを勘違いしている寺族がいるというようなことが書かれているものもございます。このことで悩んでいる講員さんも、結構いるようです。
私はよく、家内や、あるいは教区の方々に申し上げるのですが、それは、法華講は住職の奥さんが育てるということです。しかしながらこれは、寺族が講員に対して、命令したり、指導したりするということでは、けっしてないのです。
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法華講が学会と異なる点は、猊下を中心に、僧侶・寺族と講員が本当に一つの家族のような関係にあるということなのです。
私はどこで講員さんにお会いしても、それがたとえ知らない人であっても、十年来の親友のように接しております。講員さんといると孝心するのです。家族といるような安堵感があるのです。そこが法華講の良いところですね。
ですから、奥さんが法華講員を育てるということは、奥さんが表に出るということではなくて、常に陰に隠れて住職を助けるということなんです。そして講員さん達に会ったとき、「お元気ですか」とか「御病気はいかがですか」などと、ちょっと声をかけたり、あるいはお茶を出したり、お菓子を出したりして、住職が気付かないようなところで、講員さん達を温かく包み込むというのが、奥さんの重要な役目なのです。
法霑寺では、一週間に二回、法華講の方々が順番で掃除に来てくださるのですが、そういうとき、私は必ず家内に、お茶とお菓子を運ばせております。奥さんが、住職が信徒に接するように振る舞うことは、けっしてよくないことなのです。
/P93-下
とにかく、寺族は寺族としての本分をわきまえ、常に陰となって住職や法華講員達を守るということが、寺族としての使命であり、また御本尊様への御奉公となるのであります。
たいへん長くなりましたが、とにかく、今、宗門は、本当の意味で「新生宗門」として、私達が法華講と共に、猊下の御指南を実践して、本来の宗門の在り方に戻し、と同時に、未来永劫にわたる広布の基礎を作っていくんだという真剣な気持ちを持って、今後とも励んでいきたいと思います。
貴重な時間を割いていただきまして、まことに有り難うございました。

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