立場を鮮明にすべき

未分類
untitled

宗教とは、 まず教え(&教えに基づく信仰の対象)があって、 それを信じ、弘め、伝える信仰者があり、 更に教えを奉じる信仰者の儀式なり文化があるのである。

ところがこのダライラマは教えに自身の教えに反することを言って得々としている。これは宗教者としてやってはいけないことである。

浄土思想ならば、現世で救われる事を願うのは二の次であるはずだ。だから低級で取るに足らない教えであり、念仏無間、と日蓮大聖人は喝破されるのである。

何の宗教にも属していない、無知な凡人が言うならまだしも、こういう、「教えを体現したような人」が、人々の聞こえが良いことを言って自らが説く教えを無視してはいけない。

こんなことが許されるなら、その宗教は破綻している。一顧の要なしだ。

もしダライラマが私自身が教えそのものだ、私の口から出たものはすべて教えだ、というのなら、大川隆法のような何でもアリの無節操な姿と何ら変わりがないことになる。それは果たして宗教と言えるのだろうか?

この道理は創価学会も一緒である。
彼らは何を信じていたのか、大石寺の本門戒壇の大御本尊ではなかったのか。
大御本尊を信ぜよと伝える、唯授一人の血脈敬称の御法主上人ではなかったのか。

こういう、「教えを蔑ろにして自説・己義を主張する輩」は一闡提、二乗といって度し難い。救われないのである。

とここまで書いて以前にもこんな事を書いたなぁと気がついた。

これだ

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

http://honshubou.main.jp/blog/2015/01/14/それが衆生救済の役に立つことなのか?>他宗

コメント

タイトルとURLをコピーしました