仏法は海の如く、唯信のみ能く入る。

【止観】若し掉散せば、応に数息を用うべし。何を以ての故に。此の蓋、甚だ利なり。来る時は覚らず。于〈やや〉久しくして始めて知る。今数息を用いて、若し数成ぜず、或る時は中ごろ忘れば、即ち已に去ると知り、覚り已って更に数えよ。数相成就すれば、則ち覚観は伏せらる。若し之を治せずんば、終身蓋せらる。若し三疑の懐に在らば、当に是の念を作すべし。我が身は即ち是れ大富の盲児、無上法身の財宝を具足し、煩悩に翳〈おお〉われて、道眼は未だ開けず。要ず当に修治して終に放捨せざるべし。又無量劫より来、習因何ぞ定らん。豈自ら疑って時を失い利を失うべけんや。人身は得難し。怖心は起り難し。疑惑を以て而して自ら毀傷すること莫れ。
若し師を疑わば、我今無智なり、上聖の大人すら皆其の法を求めて其の人を取らず。雪山は鬼に従って偈を請い、天帝は畜を拝して師と為す。大論に云く、嚢臭きを以て而も其の金を棄てず。慢は高山の如く雨水停らず。卑は江海の如く万川帰集す。我法を以ての故に復応に彼を敬うべしと。普超経に云く、人人相〈あい〉見て、相〈あい〉平相すること莫れ。智は如来の如くにして、乃ち能く人を平せよ。身子の云く、我は今より去って、敢えて復是の人は生死に入り、是の人は涅槃に入ると言わずと。即ち此の意なり。常に恭敬を三世の如来に起せ。師は即ち未来の諸仏なり。云何ぞ疑を生ぜんや。[四‐五十八ヲ][四之四‐九ウ]
【止観】若し法を疑わば、我法眼未だ開けず。未だ是非を別たず。憑信するのみ。仏法は海の如く、唯信のみ能く入る。法華に云く、諸声聞等、己が智分に非ず、信を以ての故に入ると。我の盲瞑にして復信受せず、更に何の帰する所かあらん。長く淪み、永く溺れて、出ずる要を知らず。和伽利云云。優波笈多、弟子をして樹に上らしむ云云。若し心に法を信ぜば、法は則ち心に染む。猶予狐疑すれば、事は覆器に同じ。[四‐五十九ウ][四之四‐十二ヲ]
止会中140


【止観】もし散漫(し集中できなければ)せば、応に数息(の呼吸)を用うべし。何を以ての故に。この煩悩は、甚だ鋭いからだ。(この散漫の煩悩が)来る時は察知出来ず。やや久しくして始めて(この煩悩に犯されていることを)知る。今数息を用いて、もし数成ぜず、或る時は中ごろ忘れたならば、即ち已に(散漫の煩悩に害されている)と知り、それに気づいたら更に数えよ。数相成就すれば、則ち覚観は散漫の煩悩を降伏する。もしこれを治せずんば、一生散漫の煩悩に悩まされる。
もし三疑が懐にあらば、まさに是の念を作すべし。我が身は即ち是れ大富豪の盲の児、この上無い法身の財宝を具足しているのに、煩悩に覆われて、仏道の眼は未だ開けないでいる。きっと将来この弊害を克服してやる、絶対に諦めないゾ。
又無量劫の昔からの習因があるのだから、悪業が尽きるわけがない。どうして今、自ら仏法を疑って時を失い利を失っている場合だろうか。人身は得難し。怖心は起り難し。疑惑を以て、それで自ら毀傷してちゃいけない。
もし師匠を疑うなら(信じられないなら)、自分は今無智なり、昔の偉人すら皆その教えを求めて其の人の人格を取らず。
雪山童子は鬼に従って偈を請い、天帝は畜を拝して師と為す。
大論に云く、嚢臭きを以て而も其の金を棄てず。
慢は高山の如く雨水停らず。卑は江海の如く万川帰集す。
(高慢ちきであったら注意してくれる人は居なくなり、謙虚であったなら色んな人が手を貸してくれる)
私は法が尊いと思うからこそ、応に教えてくれる師匠を敬うんだと。
普超経にこうある、人人を観察して、全部自分と同じような凡人だなぁと思うな。
自分が仏様のような智慧者になれたなら、人々は凡人だななぁと思って良い。
舎利弗が言った、私は今後、わざわざこの人は不幸になり、この人は幸せになるだろうとは言わないことにしよう、というのは即ち此の意である。
常に恭敬の心を三世の如来に起せ。凡師の教えるところは即ち未来の諸仏である。どうして疑を生じてよかろうか。否良くない。[四‐五十八ヲ][四之四‐九ウ]
【止観】もし法を疑わば、自分は法眼が未だ開けずにいるんだ。未だ是非の分別が出来てないんだと思って憑信(頼って信ずる)するのみ。
仏法は海の如く、唯信のみ能く入る。法華に云く、諸声聞等、己が智分に非ず、信を以ての故に入ると。自分は盲瞑であって復何者をも頼りとしなかったなら、この先いつまでも帰する(心安まる)所があろうか。長く淪(しず)み、永く溺れて、出ずる要を知らず。和伽利云云。優波笈多、弟子をして樹に上らしむ云云。もし心に法を信ぜば、法は則ち心に染む。猶予狐疑すれば、事は覆器に同じ。[四‐五十九ウ][四之四‐十二ヲ]

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