一人じゃない!?

家の者が歌番組を見ていたので、見るともなしに見ていたのですが、
どうも最近の歌謡曲は字余りだったり、変な所で区切ったり、字幕を見ないと何を歌ってるのかサッパリ分からなかったりで、一体こんなののどこが良いのか首を傾げずには居られません。
まぁそれはともかくとして、全体的にどの曲も「一人じゃない」「私がついている」「一緒にいよう」的なニュアンスがちりばめられていて、最近はそういうのが流行なのかなと思いました。察するに東日本大震災後の慰問の風潮の産物ではないでしょうか。
しかし――、と私は思うのです。
いくら一緒にいる、一人じゃないぞ、私がついている、などと言っても、
人間、死ぬ時は必ず一人ですから!
一時期多発して、今でもタマに耳にする有志を募っての練炭自殺ですか、そのような形で同時に無理心中したとしても、生前、あるいは前世からの因縁によって死後の果報は区々(まちまち)です。死後の世界へもずっと一緒に行けるわけはありません。
唯一、私たちが死んだ後も頼りとなるのは御本尊様しかありません。
だから生きている内に出来るだけ信心に励んで、大きな功徳善根を積んで現世安穏にして後生善処、つまり死んだ後、良い所へ生まれ変わる原因を溜め込むのです。
そうした時、人の親切はアテには出来ません。ひたすら御本尊様対自分の真剣な信心が求められるのです。
例えば今日は疲れたから夜勤行は御題目三遍で良いよね? などと仏様に対する自分勝手な言い訳が通用するはずは決してないのです。
手がない人には手を貸してくれる人が居るかも知れません。
目が見えない人には手を引いてくれる人が居るかも知れません。
けれど、身体が無くなってしまった人にはどうやったら、親切を届けられるでしょう?
身体が無くなってしまった人、即ち死んでしまった人にはもはや御本尊様を通してしか助力することは出来ません。
なぜなら故人は御本尊を見ようにも目がありません。合掌しようにも手がありません。端座しようにも体がありません。生きて居ればこそ仏道修行に励めるのであり、また生きた状態でなければ功徳善根を積むことは出来ないのです。
信心をしていないあなたがお墓に花を手向けることよりも、あなたがこの御本尊様を信じて一遍の御題目を唱えてあげることの方が何億倍も故人は喜ぶのです。
今他人はアテにならない、と言いましたが、
自分のことだけを考える姿勢を二乗根性と言います。
しかし、情けは人のためならず と言います。自分が死後にも救われたいと思うならば、子孫にも是非この大聖人様の信心をはっきりと伝えていかなければならないでしょう。それは自分の為になるのみならず、子孫も一生成仏という大果報に与らせるという大親切にもなるのです。
二乗根性の謗りを免れる為には御塔婆を立てるなどして故人の追善供養をしましょう。そして親類縁者、嫁、婿、孫、更には有縁の人々に信心を勧めましょう。
そうしたとき、初めてあなたは真に「一人じゃない」「みんなこの信心の元に一緒なんだ」という絶対的な安心感に包まれるのです。
九識心王真如の都という成仏の境界はもはや個人個人のものではありません。その境界に達した人は全て御本仏様の御心と一体となるのです。
世間の「一人じゃない」は単に傷をなめ合うだけの自己満足に過ぎないのです。
ここに世法と仏法の大きな隔絶が明らかです。
先日ラジオでどこかの教諭が次のようなことを言っていたのを聞きました。
最近は「頑張れ」という言葉を使うことが遠慮されている。
充分頑張っている人に更に「頑張れ」というのは気の毒だ、というのが理由だ。
しかし、大変な目にあって居る人が限界ギリギリの所にいるのは当然であって、
その限界を超えろ!もう少しだ!と応援するのが「頑張れ」なのであって
その人が「もう充分頑張っているから頑張れと言ってはいけない」という考えは
勝手に相手の限界を決めて、そこまでやらなくてもいい、と言って力をなくしているのに等しい・・・(趣意)
私もこれには賛成です。
頑張っている人はひたすら挑戦者なのです。例え自分が望むと望まないとに関わらず、
いま自分がこれを為(な)さなければ、もう後がない
と言う状況にあって、遮二無二、がむしゃらに目前の苦境と戦っているのです。
力を出し惜しんだ挑戦者には後悔の念と敗北あるのみです。
だから、私は「一人じゃない」「私がついている」などとは言いません。
「信心で頑張れ!」と叫ぶのです。

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