折伏は信心の秘訣と言えまいか。

こんなことを言うと、情けない奴だと言われそうですが、偽らざる所感を以下に綴ります。
私事ですが、元旦から一日何時間、と一定時間を決めて唱題していて、何とか今まで続けて来れています。
しかし、時には多忙により所定の時間を満足できなかった日もあって、唱題の不足分が溜まっていきます。
出張や会議で今日は不可抗力、しょうがない。などと思っているとあっという間に不足分は溜まっていきます。
現在、7時間ほど想定より不足している計算になります。
ある程度不足分が溜まると、なんだか感覚が麻痺してきて、もはや決してそこから更に後退すまいと躍起になって、中々不足分を解消することが出来なくなってしまっていきます。
これを思う時、私たちの過去世からの罪障も似たような者なのではないかなと感じました。
即ち過去世において、お気楽に暮らす内に謗法のそそのかしによって正法を誹謗し、安易に山のような罪障を積み上げてしまった。
佐渡御書に
「今謗法の酔ひさめて見れば、酒に酔へる者父母を打ちて悦びしが、酔ひさめて後歎きしが如し。歎けども甲斐なし、此の罪消えがたし。何に況んや過去の謗法の心中にそみけんをや。」(581頁)
とあるように、正法を謗る時は深い考えもなしにカラスがカーカー鳴く如く辺りを憚らずに喚きますが、それがどれだけの罪障を招いているかということに気づけていません。
その後いくら人として善事を為して罪障の消滅に励んだとしても、借金の利子分にしか過ぎず、借金の本体部分の返済には全く切り込めていなかったのではないか。生まれ変わる度に、これ以上罪障を増やさない努力はしても、今まで積み重なった山のような罪障には頬っ被りを決め込んで、徹底的に罪障を清算しようとは思えなかったのではないか。
だから末法の今世にまで流れ流されて来たのである――
とね。
所が最近ある人を折伏しようと思い立った時――、
自分に課した唱題が満足に達していないのでは折伏が叶うわけがない。
今度その折伏対象者が訪ねてくるから、その日までには不足分を帳消しにし、相手が話を聞く聞かないは度外視して、
少なくとも自分の側は晴れ晴れと折伏出来るようにしよう
という気持ちに変わり、みるみる内に唱題不足分は解消されていきました。
改めて言うことでもありませんが、やはり折伏は、それが成じようと成じまいとに関わらず、自分の信心にとって有益なカンフル剤なんだなと思いました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました