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守文の徒

守文の徒

 概要

守文の徒(しゅもんのと)とは自らが解した文の表層の意味にこだわり、文の意に思いの至らぬ者のことで、蔑称である。

一般的な使用例は殆どないので宗内に通用する特異な語の一つであろうか。(守文「しゅぶん」は国が興り文治となる様を言う、と一般諸辞書には説明があるが、これとは違う。仏教は大体「呉音」を用いるので例えば経文・文殊等と「文」はモンと読むと思われるので「しゅもんのと」と読んでおく)

世に「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」というが、言葉や文書はそれを発した人の意(こころ)を対外相手に伝わるようカスタマイズされたものである。だから、言葉や文書から正当にその人の意を汲んだ人にはその人の意がよく伝わり得るが、そうでない人には言葉や文書にこだわり頓珍漢なことになる。

例え話を紹介しよう。
昔、お寺の和尚さんが、檀家にお経を上げに来た。夏の暑い日だったので、家の主人は子供に「和尚さんを団扇で扇げ」と指図しました。
次に和尚さんが檀家に来たのは冬でした。子供は「今がその時!」とばかりに団扇を出してきて和尚さんを扇ぎ始めました。
こんな例はもちろん、主人の指示を「和尚が読経の際は扇ぐ」としか受け取らず、「暑いから扇いで差し上げろ」という意を汲めなかった事を著している。

仏法にあっても「群盲象を撫づ」の例えのように、釈尊の教えの一部を以てそれが根幹であると立て、真実最高の法華経を顧みない輩が教祖開祖となって凡百の邪宗が生まれた。

似た様な言葉に「外典(げてん)よみ」というものがある。

日顕上人の御説法に以下を見つけました。翫味願いたい。
 「口伝」とは、非常に大事なことなのであります。なぜなら守文の徒瓩箸いΩ斥佞あ
るように、文があっても経文の文面だけを守ることに懸命になってしまって、その文の真
の意義が解らずに「ああだ、こうだ」と言っている人かあります。けれども、文はあくま
でも意義・筋道を示しておるのでありまして、その意義・筋道を忘れて文だけに執らわれ
てしまう場合が、多々あるのであります。やはり、文があっても、本当に眼のある方が読
んで初めて、その文は活きてくるのであります。眼のある方でなければ、文の本来の意義
は顕わされず、死文になってしまいます。そういうのを守文の徒瓩反修靴泙后
大日蓮S55.10 P24
大日蓮s57.06 P44


[用語,]

最終更新時間:2023年05月13日 11時16分52秒