父の病気と僕の決心
妙広寺支部 N目R治君
みなさん、こんにちは。
平成二十八年、僕たち妙広寺信徒は、総本山塔中の総二坊に所属していました。皆で新たな菩提寺を建立するために、御供養を頑張っていました。僕もお小遣いの中から御供養をしていました。
父は、仕事のため、静岡に一人で暮らしていました。この年の8月、全国鼓笛隊コンクール直前のことです。父の顔色は悪く、イライラしていたり、すぐ怒ったり、時々ろれつが回らなくなるなど、「どこか体調がおかしいのではないか」と、僕は不安に感じていました。
父の病気 余命3日
コンクールが終わった後、父は地元の埼玉の病院で色々と診察しましたが、詳しい原因はわかりません。そこで9月6日、今度は静岡市内の病院で検査を受けました。
その日の夜、母は、僕たち姉兄三人を仏間に集めて話しました。
「今日、お父さんは、静岡日赤病院で検査しました。すると、悪性リンパ腫という血液のガンだということがわかり、そのまま入院することになりました。N目家は、血液の病気で亡くなる人が多く、お父さんも、この宿業からくる病です。ガンは、肝臓全体にピッシリと着いていて、良い所が無い状態だということで、医者から余命3日と言われました」
という話を母から聞き、僕は言葉が出ませんでした。
さらに母は続けました。
「御本尊様が諸天善神を遣わして下さったから、静岡の医者は病気を見抜くことができました。お父さんは、寸前のところで救われたのですから、御本尊様に感謝しないといけません。でもね、お父さんは、『もう駄目かも』と弱気になっていたから、お母さんは、『諦めるな。今こそ題目を唱えないで、いつ唱える。御本尊様を決して疑ってはならない。勤行し、真剣に題目を唱えろ』と励ましています。今日からお父さんが一日も早く回復することを願って、唱題して御祈念することが大事です」
と、僕たちにこう話した母は、その日から、どんな時でも必死に題目を唱えていました。僕は、そんな母の姿を見て、「ふざけている時ではない」と感じ、父のことを思いながら唱題するようにしていました。
翌日の9月7日、病院へ見舞いに行くと、ベットの上での父の顔色は、黒っぽい黄色でした。父は、
「黄疸の影響で、頭や顔、全身が全て黄色くなった」
と弱々しい声で話しました。
平野御住職様は、御法主日如上人猊下様に、父の当病平癒の御祈念と御秘符の申請をしてくださり、父は御秘符を頂くことができました。
その後、しばらくして、母は、
「以前に行ったカテーテル手術は、御秘符を頂戴する前には効果を感じることができなかったけれども、御秘符を頂戴した後から、どんどんと黄疸の数値が下がりました。肝臓に着いたガンも減り、当面の命の危険からは抜け出しました。これも御本尊様と猊下様、御住職様をはじめ、皆様の御祈念と御秘符のおかげです」
と泣きながら話しました。
それから僕は、母と一緒に何度も父の見舞いに行きました。夜、埼玉の自宅を出発し、総本山の横を通って静岡市に向かいました。時には、大雨や濃霧の中を運転することもあり、母は相当疲れているように見えました。でも母は何も言わないので、僕も「疲れた」と言わないようにしていました。
その後、父は退院できるまで回復し、一旦、埼玉の僕らのもとに帰ってきました。それはちょうど、菩提寺の起工式が行われた頃でした。
父の病気 あと1日
しかし、11月13日、父は突然苦しみだし、地元の病院に行きましたが、原因はわからず、翌14日に静岡の日赤病院へ戻って、最初に父の病気を見抜いた医者にも見てもらいました。すると「胆管結石」だということがわかりました。医者は
「あと一日、発見が遅かったら命はなかった」
と話し、皆びっくりしました。
「また寸前のところで御本尊様に助けてもらった。二回も助けてもらった」
と実感した僕は
と思いました。感謝しかありませんでした。
その頃には、菩提寺の名前が「本法山妙広寺」と決まったと話があり、寺院建立は着々と進んでいました。
しかし、父の病気は一時の回復が止まり、その後は数値も良くなっていきません。父の肝臓に着いていたガンは、まだまだ、たくさん残っていて、抗がん剤治療が効いていないのではと疑われ、行き詰まっている状況でした。
母は、
「お父さんの病気の治療は難しく、確立した治療方法も無く、手探りで治療している」
と悲しげに話しました。
父の回復傾向
そんなことから、再びカテーテル手術を行うことになりました。その結果、御本尊様が三度目の奇跡を起こしてくださり、父のガン細胞は、残り4個まで、大幅に激減しました。
ようやく、容体が安定した平成29年4月、埼玉で治療を継続する病院が「さいたま日赤病院」と決まり、父は、僕達家族と、再び暮らせるようになりました。
6月、新たに治療方針が決まった日、父は、自宅の御本尊様の前で、暗い顔色で僕達に話しました。
「お父さんは、仮に、ガン細胞を全部なくすことができたとしても、二年後の再発率は60%、五年後の生存率は20%以下だと言われました。 お父さんは、この業病に負けるつもりはないし、信心で必ず治して生き抜くつもりだけれども、お前達一人ひとりが、これからの進路・人生を真剣に考えて生きてほしい」。
この父の言葉のあとに、今度は母が、
「お前達は、お父さんと同じ宿業の上から、同じような病気になる可能性が極めて高い。だからこそ、信心で乗り越えていかなければならない」。
僕は、この話を聞いて、泣いてしまいました。
父の病気の経過を見てきたからこそ、
「父が死んだら悲しい」
「父の宿業の病気を根本から治したい」
「僕だけでなく、母や姉、兄、または父のように苦しんでいる人の心を救いたい」
と思う様になりました。
僕の決心
そのために僕は、日蓮正宗の御僧侶として得度し、この御信心を広めていきたいと、この時、「決心」しました。
八月十九日、待ちに待った僕達の菩提寺である「本法山妙広寺」の落慶人仏法要が、猊下様の大導師で行われ、僕達は、家族全員で参加することができました。
父は。
「法要に参加できて嬉しい」
と、ずっと泣いていました。その横で、僕も泣いてしまいました。
そして、九月、検査した結果、父の肝臓に着いたガンは全てなくなっていました。
父は、これまでの治療を振り返って。
「病気が見つかり、余命宣告を受けたあの日、あの時、『自分は死ぬのか』『もう駄目だ』と心が折れる寸前の絶望の中、お母さんや子供達、御住職様をはじめ皆さんの励ましがあって、気持ちを持ち直すことができた。御本尊様を疑うこと無く、勤行・唱題を貫いた結果が、今、こうして生きていられる。勤行・唱題をしていると、不思議に元気が出てきて、血液の数値が日に日に良くなっていることを実感した」
と話してくれました。
父は、現在、定期的に病院に行き、経過観察中です。
僕は、今回の体験を通じて、縁ある人やお友達に、御本尊様の話、父の話をしています。
僕は、父の病気が再発せず、数年後、完全完治となるように、御祈念の唱題を続けています。
そして、僕自身の「決心」を実現させ、父だけでなく、多くの人たちを救っていきたいと願っています。
これで僕の発表を終わります。
[体験,病気平癒,悪性リンパ腫]
こちらはお父さんの体験談→[強盛な信心で病を克服]
千葉推進会報より転載(小見出は当方)させて頂きました。
「始め」とは「女」が「土台」となるから始まるんだ、だからご婦人が本気になったら凄いんだ、とある方の説法にありました。
N目家の信心はこのお母さんの信心が土台にあったのではないかと察せられ孟母三遷の母の様な姿を感じました。それが息子さんに大きく投影されたのでしょう。
R治君の決心、これはとても尊い事です。ぜひともその決意を貫いて欲しいと思います。御書に、
「抑今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」(上野殿御返事1206)
とあります。得度試験合格おめでとうございます。
最終更新時間:2020年01月17日 12時51分01秒