人智を越えて生きた我が子の実証
妙観講 T野M子
序
私の息子・賀一(よしかず)は、本年一月四日、二十八歳で臨終を迎えました。
通常、二十八歳といえば、若すぎる死と思われるかもしれませんが、
息子の場合は、ここまで生きられたこと自体が、まさに奇跡だったのです。
本日は、その息子と私たち一家が御本尊様から頂戴した偉大な功徳について、発表させていただきます。
そもそも、息子が生まれる十年ほど前、私は、学会員からの強引な勧めによって、何もわからないまま御授戒を受け、御本尊様をお受けしておりました。
しかし、最初から信心をする気など全くありませんでしたので、御本尊様は一度もお聞きすることなく、そのまま実家のタンスにしまい込んで、嫁いでしまったのです。
業報顕在
そのように御本尊様を粗末にしていたのに加え、主人は、邪宗日蓮宗の害毒を強く受けていましたので、ただで済むはずがありません。それは、結婚して十年後にやっと恵まれた長男・賀一に、恐ろしい形となって現われました。
生後六ヶ月になるというのに首もすわらず、物を掴むことすらできない賀一に、医者から告げられた病名は、重度の水頭症と点頭テンカンというものだったのです。
それは、脳が次第に萎縮していき、その縮んだ空洞に水が溜まり、脳を圧迫してテンカンの発作を繰り返すという、恐ろしい病気です。さらに、結節性硬化症といって、小さな腫瘍が内臓の中から皮腐の表面まで、全身に広がっていく病気があることも判明しました。
これらの病気は、原因が不明で、現代の医学では治すことができず、医者から、
「この子は五歳くらいまで、立つことも歩くこともできませんし、知的障害によって普通の子供には育ちませんよ。
また、残念ながら、せいぜい七歳くらいまでしか生きられません」
との絶望的宣告を受けてしまいました
その時は、よもや、これが御本尊様を粗末にしてきた罰と、謗法の罪障によるものであるなどとは思いもせず、私たち夫婦は、ただ悲嘆にくれるばかりでした。
正法邂逅
しかし、昭和五十年の四月、妹であるH井出支部長と大草講頭の熱心な折伏により、ワラにもすがる想いで、この日蓮正宗の信心をさせていただくことを決意したのです。それは、賀一が一歳の時でした。
信心を始めてからの私は、
「必ず良くなります」
との皆さんの言葉を信じ、必ず治してみせるとの一念で、毎日、二時間・三時間・四時間と唱題を重ねました。 また、
「罪障消滅のためには折伏をしなければならない」
との御指導のもと、親戚や知人は言うに及ばず、近隣の人達も片っ端から折伏して歩きました。
折伏や会合に行く時は、とにかく賀一自身にも功徳を積ませるのだ、との想いで、必ず一緒に連れて歩きました。
折伏先では、
「その子供を治してから出なおして来い」
などと罵られることもしょっちゅうでしたが、罵られれば罵られるほど、罪障が消えていくのだと思うと、痛くも痒くもなく、むしろ、喜びが込み上げてきました。
そのように信心に励んでくる中、賀一は突如として成長しだし、医者から
「歩けるようになるのは、五歳くらい」
と言われていたのに、なんと、一歳八ヵ月の時に、突然、自力で歩きだしたのです。
そして、無理だと言われていた小学校にも普通学級で入学でき、低学年の頃は、健常の子供よりも計算が速くできて教師を驚かせ、また、どんどん知恵もついていきました。
確信精励
この信じがたい現証を見て、私は、いっそう、唱題に、折伏にと励むようになりました。
そして、入信七年目には、なんと、これまで萎縮していた脳が正常に戻る、という、考えられない現証が現われ、医者から「現代の奇跡だ」と言われたのです。
また、賀一は、結節性硬化症によって、体のあちこちに小さな腫瘍が広がり、それが眼球の中にもできていたのですが、医者は、
「どういうわけか、瞳孔を避けてできている。不思議だ」
と言って首を傾げていました。もし、瞳孔の上にできていたら失明してしまうのですから、本当に御本尊様の御加護としか考えられません。
この時、七歳までしか生きられない、と言われていた賀一は、すでに、その七歳を超えてどんどん延命していました。
私にとっては、賀一の延命と成長が人生の全てのように感じられ、また、賀一には、本当に人生の幸せを味あわせてあげたい、と思いました。
果報厳然
十歳の時からは、数年ごとに、脳や腎臓、血管などにできた腫瘍を取り除くための手術が必要となり、その度に生命の存続すらも危ぶまれる状況だったのですが、御秘符を頂戴し、御住職様に当病平癒の御祈念をしていただき、また一家で真剣に唱題していったところ、その功徳で手術は毎回大成功、回復も順調で、そのつど普通の生活に戻ることができました。
賀一はまた、病と闘いながらも、学校を卒業してからは、市から紹介された仕事をコツコツとこなし、働く喜びを覚え、また、そこで得た収入を、本当に心からの感謝をもって、全て御本尊様に御供養させていただいておりました。
そうした日々は、たしかに平坦な道ではありませんでしたが、一つ一つの事に、一家で命がけで取り組み、また涙し、喜びにむせぶという、普通では感ずることのできない、一家和楽の素晴らしい日日でした。
斜陽
こうして、賀一は、御本尊様の功徳によって奇跡的に寿命を延ばし続けてきましたが、すでに体は限界を超えており、静脈も至る所で途切れてしまっている状態で、これ以上の治療はできないところまできていました。
そして、一昨年・平成十三年の秋頃には、足もとがふらついて、支えがないと歩けない、という日が多くなり、自分の体が思うようにコントロールできなくなっていきました。
それから何度か入退院を繰り返したのですが、昨年四月、医者から
「息子さんは、配酔の時が迫っています」
と宣告されたのです。そして、
「もはや、するべき治療は何もありませんから、最後は自宅へ戻るか、療養できる施設を探したほうがよいでしょう」
と言われ、二十八年間お世話になった日大病院を退院することになりました。
求法の果
総会参加
もう、この頃の賀一は、歩くどころか、座ることもままならず、ほとんどベッドに横たわっている状態でした。でも、五月に東京で行なわれた第二十四回総会には、「どうしても参加したい」との賀一の希望で、車イスで参加しました。賀一は、そうとう体がきっかったと思うのですが、弱音一つ吐かず、最初から最後まで、一生懸命、お話を聞いておりました。
そして、この求道心がもたらした功徳でしょうか、総会の直後、賀一を受け入れてくれる良い病院が見つかったのです。
しかし、その病院で賀一を診た医者からは、
「もう、残りわずかですよ」
と告げられました。
その一言葉どおり、七月八月は、いつ臨終が来ても不思議ではないような、危険な状態が続きました。
そして私も、ともすれば、あきらめてしまいそうになりましたが、
「仏法の力は医学の限界をも超えるものだから、医学的に無理でも、あきらめてはいけません」
との先輩の指導に心をもち直し、
奉安堂御開扉
「ここまで頑張ってきたのだから、何としても十月の奉安堂落慶記念法要に賀一を参詣させてあげたい、立派な奉安堂に御安置された戒壇の大御本尊様を、もう一度拝ませてあげたい」
と、執念で御本尊様に祈りました。
そうしたところ、秋に入り、どんどん息子の症状が落ち着きはじめ、病院から外出許可をもらうことができたのです。(大拍手)
「お山に行けるよ」と告げると、賀一は、本当に嬉しそうでした。
総本山に行くには長時間、車に揺られるわけですから、途中での死も覚悟しての御登山でしたが、出発時からずっと唱題し続け、無事、着山できました。
奉安堂に入った賀一は、もうあまり瞼も上がらない状態の中で、精いっぱい顔を上げ、内部を見回わしていました。そして、イスの背もたれに付いているスピーカーを指さしました。
私が、
「聞こえる?」
と聞きますと、賀一は、嬉しそうにうなずきました。
こうして賀一は、渾身の力を振り絞って御登山し、新築なった奉安堂で本門戒壇の大御本尊様にお目通りすることができたのです。(大拍手)
御登山から帰ると、またしても、賀一の身に、大御本尊様の功徳が燦然と輝きました。というのも、
臨終正念
すでに脳からの髄液が体に流れなくなっていたはずなのですが、それが自然に流れるようになり、また、しばしば起こっていたケイレンが、まったく起こらなくなったのです。高かった血圧も正常になっておりました。
そして、徐々に体が衰弱はしていくものの、静かな落ち着いた日々を取り戻すことができました。賀一本人は、すでに最期の近いことを悟っていた様子で、衰弱が著しい中でも、私に
「お数珠を取って」
と頼んでは、そのつど、病院のベッドの上で一時間、二時間と唱題していました。
本年一月四日の夕方、呼吸が次第に浅くなった賀一は、傍らの家族の顔をゆっくり一人ずつ見て、その後、深呼吸を二回して、静かに息を引き取りました。
すると、どうでしょう、臨終とともに、賀一の顔は、スーッと目と口を開け、半眼半口に変わったのです。
賀一を連れて自宅に戻ると、そこには、講頭をはじめ講中の皆さんが、賀一の帰りを待っていてくださいました。
講頭は、息子を失った虚しさで悲嘆にくれる私に対し、
「これで終わったわけではありませんよ。本当に成仏のかかった一番大事な時なのですから、
しっかり唱題して、賀一君の成仏を願うことが大切です。それに、御書には、
『同じ妙法蓮華経の種を心にはらませ給ひなば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれさせ給ふベし』(上野殿母尼御前御返事1509)
とあって、同じ御本尊様を信心していた親子の縁は、この世限りで終わってしまうものではなく、また同じ御本尊様のもとで巡り会える、と説かれています。
本当に心から願っていけば、また賀一君に会える時がくるのですから、そのためにもしっかり唱題していきましょう」
と御指導くださいました。
臨終の相
私は、その講頭の指導に励まされ、時間のあるかぎり唱題をしていきました。
大聖人様は、
「人は臨終の時、地獄に墮つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、軟らかなる事兜羅綿の如し。」(千日尼御前御返事・1290頁)
と仰せられ、成仏した人の姿は、肌の色が良くなり、身も軽く、また、兜羅綿のように柔らかくなる、と示されています。
賀一の遺体は、まさにそのとおりの姿を現じました。
納棺を手伝ってくださった方達が、賀一の体を数人で持ち上げたところ、あまりに柔らかいため腰がグニャッと落ちて、あわてて手を当てたほどでした。
そして翌日の通夜の前、私は、賀一にお数珠を掛けてあげようとして、手に触り、びっくりしました。賀一の手は、フニャフニャを通り越して、フワフワの柔らかさだったのです。一緒にお数珠を掛けようとしたH井出支部長も、「柔らかい!」と、驚きの声を上げていました。
私は、フワフワした息子の手を触りながら、「兜羅綿のごとし」とは、このことだったのか、と、ただただ御本尊様のお力の偉大さに感激するばかりでした。顔も、闘病生活のために痩せてはいたものの、頬に触ると、皮膚が柔らかくなびき、また、鼻に触れたら、柔らかくクニヤツと曲がったのです。感極まった私は、賀一に向かって、
「すごいね。こんなに柔らかいんだよ」
と、何度も何度も語りかけました。そして私は、さらに驚くべきことが、賀一の身に起きていたことに気付きました。臨終を迎えるまでの賀一は、鼻全体に結節性硬化症による腫療ができていて、とくに鼻の先端は腫れて丸い形になっていたのですが、いつの間にか、その腫瘍が全て消え去り、鼻筋の通った、高くてきれいな鼻になっていたのです。鼻ばかりではありません。おでこや頬・あごと、顔全体にできていた腫瘍も全部消えて、きれいな肌になっていました。表面に出てきていた腫瘍が消えたということは、体の内部にできていた腫瘍も全て消えた、ということです。これは、難病の結節性硬化症が、臨終と同時に完治したのだ、と確信いたしました。
そして、賀一の顔つきは、知的障害からきていた幼さが消え、見るからに二十八歳の青年、という感じになっておりました。
講頭は、
「これが、罪障消滅をした賀一君の本当の姿だったんですよ」
と言ってくださいましたが、私は、病気がなかったらこのような青年になっていたのか、と思い、最後にその姿を見ることができて、感慨もひとしおでした。大聖人様は、
「生死を離るゝ時は、必ず此の重罪をけしはてゝ出離すベし」(開目抄御書五七三頁)
と仰せられ、過去の罪障を全て消し果ててこそ、一生成仏が叶う、と示されていますが、私は、こうした現証を通じ、まさに賀一は、罪障消滅を成し遂げて成仏させていただけたのだ、と確信いたしました。(大拍手)
感謝と決意
一歳の時から二十七年間、大草講頭をはじめとする先輩方に見守っていただき、妙観講と共に生きてきた賀一は、最後、敬愛してやまなかった小川御住職様と講中の皆様の御題目の声に送られて、霊山へと旅立って行きました。御住職様、そして皆様、本当にありがとうございました。(拍手)今後は、息子・賀一を成仏させてくださった御本尊様の大恩に報いるためにも、しっかりと御奉公をしてまいります。ありがとうございました。(大拍手鳴り止まず)
最終更新時間:2020年04月16日 07時24分14秒