釈尊の四十余年の諸経は、法華経の一分一分を方便として説かれた。これを相待妙と言う。
したがって、やがて法華経にすべてが帰入する。これを絶待妙と言う。
また、それぞれの方便経を説いた仏も、文上では釈尊の分身であり、文底では日蓮大聖人の分身であるから、法華経の題目は他の諸経・諸仏を一括して収めている。
これらの諸経・諸仏は、法華経から開かれたのであり、妙法はそのすべてを活用する大功徳を具えることを知って、題目を唱えるべきである。
御隠尊日顕上人猊下『すべては唱題から』 11/61
[すべては唱題から,御指南]
最終更新時間:2017年10月23日 19時32分03秒