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慢心の修行犧疏記瓠 疏欺〃蓮

慢心の修行犧疏記瓠 疏欺〃蓮

 坐禅ブーム?


 かつて、侶徒でもない人が寺院に近づくのは、観光や写経が日的だったが、今では境内でのコンサートなど、イベント形式も多い。
 巷には、悩み解決のための「寺活」と呼ばれるプチ修行体験もあるという。
 そんな修行体験の中でも、「坐禅」は、容易なことから仏教初門として馴染みやすく、著名人が行っていることとも相まって、広く行われている。海外では 「日本の仏教=坐禅」とさえ認識されているらしい。

 教外別伝は付嘱なき証


 多くの人が坐禅に求めるのは「集中力を高めたい」 「ストレス解消」「動じない心の養成」等々、精神修養への期待だろう。
 坐禅をもって一派を立てたのは、ご存知、達磨。しかし多くの人が、達磨に仏からの付嘱がないことを知らない。
 仏教は必ず付嘱によって後世伝えられる。釈尊は迦葉に法を付嘱し、迦葉は阿難に付嘱し……と代々付嘱され、付法蔵が途切れる師子尊者まで続いた。
 小乗の後は権大乗、そして末法に至れば外用・上行菩薩の再誕による法華経の化導と、釈尊が説かれた仏法は、付嘱にしたがい時々に応じて弘宣されるのだが、その付嘱の順序次第に、達磨の名はない。達磨には付嘱がないのである。
 禅宗は「教外別伝・不立文字」を立て、仏の悟りは経典という文字ではなく、坐禅に基づき心から心へ伝えられると説く。
 仏の言葉を用いないと強がるのは、他でもない、仏からの付嘱がないから。だから、仏教を名乗りつつ経典を否定する、という無理をせざるを得ない。

 禅は天魔の所為


 確かに、末法の衆生は凡下であるとは言え、仏性は必ず冥伏している。坐禅は、その仏性を見定める修養である。
 しかし、我々凡夫の心は六道を彷徨い煩悩にまみれている。いかに平静を装い静かに坐禅を組もうとも、自身に具わる仏性を見抜く智慧は持たない。結果、迷いの心しか見えず、悟りは生まれないのだ。
 それを悟ったような気になる増上慢を、
 「愚癡無懺の心を以て即心即仏と立つ。豈未だ得ざるを得たりと謂ひ、未だ証せざるを証せりと謂ふ人に非ずや」(御書27頁)
 と日蓮大聖人が『蓮盛抄』に仰せである。その悟ったとの思い込みこそ魔が入り狂った姿、
 「天魔の部類・外道の弟子」(同二八頁)
 である。さらに大聖人は、
 「願ひて心の師と作ると も、心を師とせざれ」(同二七頁)
 との涅槃経の文を引かれ、三毒強盛の心を師とするな、と厳誡されている。天魔の所為たる坐禅に、功徳が具わるはずもない。

 心をどこに止めるか


 臨済宗・黄檗禅の公式サイト「臨黄ネット」には、坐禅を行うに当たり、まず 「閑静処(静かな場所)」を選ぶ工夫を勧める。とは言え。五濁悪世に生きる我々が、同サイトの言う仏性が涌き出づるような閑静処を手に入れることは、かなり困難である。
 そもそも、である。場所に応じて心が定まるのではない。心が国土世間を変えるのである。
 この理を大聖人は、
 「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ 穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」 (同46頁)
と御教示されている。
 己が心の善悪を見定めることに坐禅の本来的な意義が存するも、これで我らの心が定まることはない。
 坐禅に傾倒する人々には、大聖人の、
 「只今も一念無明の迷心は寿かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の 明鏡と或るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(同)
 との仰せをぜひとも教えてあげたい。「仮に世界的に流行ろうと、坐禅では何の解決も見出だせず、三世を通覧することもできない。かえって迷いの深みに堕ちていくのだ」と。


大白法H290116
[破折,禅宗,]

最終更新時間:2017年10月15日 15時24分13秒