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つつがない人生を願う五節句 〜文化風俗・慣習〜

つつがない人生を願う五節句 〜文化風俗・慣習〜



 古来、日本には、四季折々の行事がある。五節句はその代表格で、
・人日(一月七日)七草の節句
・上巳(三月三日)桃の節句(ひな祭り)
・端午(五月五日)菖帯の節句(こどもの日)
・七夕(七月七日)笹の節句
・重陽(九月九日)菊の節句
のことだ。
 その由来は、古代中国において、三月三日や五月五日、七月七日のように、奇数(陽)の重なる日はめでたい反面、陰に転じる日でもあり、邪気を払う行事が行われていた。
 その中国の暦法と風習が日本に伝わると、日本伝統の正月行事や氏神の祭礼、農耕儀礼といった年中行事と結びつき、次第に定着していったものと考えられている。
 季節の節目に当たり、無病息災や厄除け、我が子の健やかな成長などを願い、祝いの行事を催してきたことは、古より今に至るまで変わらぬ人々の自然な願いの発露と言えよう。

 想う気持ちは尊くも…


 正月の七日に七草粥を食べ、桃の節句にはひな人形を飾る。こどもの日に鯉のぼりを上げ、七夕には短冊を吊り、九月九日に菊酒を飲む。そうした習慣は、特段、謗法となるものではない。
 しかし、それらの催事を神社や教会で行ったり、邪宗教を通じて祈れば、これは明確な謗法となる。
 妙楽大師は『弘決』に、
「若し正境に非ずんば、縦妄偽無けれども亦種と成らず」(摩詞止観弘決会本上一七五頁)

 と、たとえ偽りなく信仰しても、対境たる本尊が正しくなければ、成仏の因にはならないと示された。
 どんなに節句を尊く思おうと、間違った信仰のもとでの催事であれば、かえって悪業を積むのである。
 そもそも、これら節句の行事は、全く宗教性のない、日本の文化風俗に基づく催事のはず。
 それを神社等で催すのは、邪教の「経営」上、これらの慣習が都合よく使われてきたからだ。
 ついうっかりでも、気軽に参加しないよう気をつけたい。

 随方毘尼と申す戒の法門


 さりとて、日本各地に存在する様々な伝統行事を、即座に非とすることも妥当ではない。日蓮大聖人は『月水御書』に、

 「仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当たれり。此の戒の心は、いたう事かけざる事をば、少々仏教にたがふとも、其の国の風俗に違ふべからざるよし、仏一つの戒を説き給へり」(御書304頁)

 と御示しくださっている。
 特に、正法正義に反せず、謗法に基づくものでもないならば、随方毘尼の上に、日本古来の文化風俗を重んじることも大切である。
 しかし、もし謗法邪宗教による催事ならば、いかに歴史があろうと、また大規模であっても、それは謗法与同の所業となる。

 正しい信仰で祈念しよう


 『秋元殿御返事』には、
「先づ五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつり、天照太神を歳の神とす。三月三日は法の一字のまつりなり、辰を以て神とす。五月五日は蓮の一字のまつりなり、午を以て神とす。七月七日は華の一字の祭りなり、申を以て神とす。九月九日は経の一字のまつり、戌を以て神とす。
 此くの如く心得て、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。「現世安穏後生善処」疑ひなかるべし。」(秋元殿御返事334頁)

 と仰せられている。この意義に則り、日蓮正宗においても、世間の風習に因んで七草や節分、七五三祝いなどを行うが、正法正義に基づいて祝うからこそ、伝統行事も、その元来の意義が異わるのである。
 正しい筋道をもって、心穏やかに日本らしい四季折々の催事を楽しむのも、ときには大切。しかし、その中心は、正境たる本門戒壇の大御本尊と、唯授一人の御法主上人に信伏随従する信心にあることを、けっして踏み違えてはならない。


大白法H290416より転載
[破折,,,]

最終更新時間:2017年10月15日 17時04分37秒